1+1は2じゃないの?

エジソンの母」に出てくる小憎たらしい小学生

以前に放映していたドラマに「エジソンの母」という作品がある。
私は第1話しか見ていないけれど、その中に1+1=2という足し算について「どうして?どうして?」とたずねる少年の話が登場する。

「どうして1+1は2なの?」
と尋ねる小憎たらしい小学生けんとくんに担任の先生が答える。

「ここにみかんが1個あります。そしてここにもう1個みかんがあります。1個のみかんと1個のみかんを足すと2個になります。
1+1=2。1足す1は2になります。わかりましたか?」

と応える。もちろんこれで納得してくれれば話は簡単だ。しかし、けんとくんは続ける。
「どうして?」
つかつかと教壇に歩み寄った彼は、徐に片方のみかんを半分にする。

「だって僕はいつもおかあさんとみかんをこうして食べているよ?こうやると、1足す1は3だよ?」

まだ続く。

「それにみかんの中にも1,2,3,4,5,6,7,8、8房あるから、1足す1は10よりもっと多いよ?」

まだまだ続く。彼はみかんの1房を突き出してこう言う。

「それに1個の中にもつぶつぶがいっぱいあるから、1足す1はもっともっとすっごくおおいよ?」

「あのね花房くん・・・・」
と戸惑いながら話しかける教師をさえぎり、彼は「どうして1足す1は2なの?」と繰り返し尋ねる。

まったく小憎たらしいのである。
だが、問題なのは女教師(伊東美咲)の態度である。
彼女はけんとくんを説得することをあきらめ自分の境遇を嘆くのだ。

このあと、同じ説明を
「青いチョーク1本と赤いチョーク1本」で説明する別の教師(松下由紀)が現れるが、もうここまでにしておこう。

その晩、伊東演じる女教師は2個のトマトを手に持ち、「1足す1は2。そんなこと当たり前として言いようがないじゃない!」と愚痴る。

翌日、こんどは生活の授業で、

「けんとくんはうそつきだ。」
「あなたの言う通りです。」

というよく知られた応酬がある。
伊東演じる教師もこの命題の主張に混乱しまくっている。

准教授登場。

ここまでなら単なる「能力のない教師」と「モンスター小学生」の掛け合いに過ぎないのだが、
事態はさらにエスカレートする。

伊東演じる教師を結婚直前で振った大学准教授がいる。
彼は、けんとくんの発言に興味を示し、
ソクラテスプラトンパラドックスだと興奮したあげく、
「その子は天才かもしれないぞ!」
などと大げさなことを言っている。
彼はさらに続ける。
「1足す1は2だとしか考えられない君が面白くない。1足す1は2。でも2じゃない場合だってある。」
そこでゼミか授業かの受講生が3人部屋に入ってくる。
准教授が言う。学生を指差して。

「ちょうどいい。1足す1は何かを述べよ。」

寒い。何だこの寒い展開は・・・・。凍えそうなのを我慢して学生たちの答えを聞いてみると・・・

2進法では当然1足す1は10(じゅう)ですね。
コンピュータ世界の定義も1足す1は10(じゅう)です。
2の剰余系では1足す1は0。
ブール代数であれば1足す1は1になります。
文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。
論理演算でも1足す1は1。電子回路なんかで使うのがそうです。具体的には、複数の入力のうちどれかひとつでも1であれば、出力も1になる場合が論理和です。

この中にはいくつか正しい記述もあるが、いくつかの間違った主張も含まれている。それは、けんとくんが犯しているのと同種の間違いだといってもよい。

だが、准教授は得意気に言う。

その通り。いいかい?学生が考えただけでもこれだけの可能性がある。
多くの人間にとっては1+1=2が感覚的に一番しっくり来るだろう。
だがこれは1つのルールであって、実際にはもっとたくさんの可能性がある。
というか、可能性というのは好奇心があるだけでうまれていくものなんだ。
それを1足す1は2としか言えない君。
2以外の可能性をすべて消して子供の純粋な好奇心を無視することしかできない君は、やはりとても面白くない人間だ。

まぁドラマは続くが、このへんで引用はおしまいにしよう。

何が問題か。(その1)

もちろんこの准教授は冒頭のやりとりを正確に聞いたわけではないので、上に引用したようなやりとりを使って、伊東演じる女教師をからかったのかもしれない。
だが、ここまでの話を数学的に見るならば、やはり教師としては、まず冒頭のやり取り

「だって僕はいつもおかあさんとみかんをこうして食べているよ?こうやると、1足す1は3だよ?」
「それにみかんの中にも1,2,3,4,5,6,7,8、8房あるから、1足す1は10よりもっと多いよ?」
「それに1個の中にもつぶつぶがいっぱいあるから、1足す1はもっともっとすっごくおおいよ?」

の後で、自分の境遇を悲観するのではなく、必ず次のように問題提起をしなければならなかったはずだ。

最初にあったみかん1個と半分に分けたみかん、みかんの1房、房のなかにある粒粒1個は、みんなおなじ1なのかな?

けんとくんは左辺と右辺で異なる1を用いて足し算を実行するという愚を犯しているので、1足す1が2ではなくなってしまったのである。教師はこのことを冷静に指摘してやらなければならない。
「何が同じ1なのか」ということに着目していくことによって、僕らは具体から離れて抽象的に数というものを認識し、計算することができるようになるのではなかったか。

冒頭の話が出てくる前、授業ではたくさんの個性あふれる猫たちが描かれたページを広げさせ、
「この中に猫は何匹いるでしょうか?数えてくださいね。」
という問いかけから始まる。猫はたくさんいる。黄色いのやら灰色なのやら。着ている服もさまざまである。でもそういう具体的な個性を捨象して、「猫は何匹か」と問われているのである。
だがけんとくんは次のように言う。
「先生。この猫だけヒゲがありません。」
もちろんそのコメントは間違っていない。確かにヒゲのない猫がいるのだ。だが問題はそこではない。
猫の個性を捨象することが重要なのである。

また、チョークの話を出した教師に対して、
「どうして赤いチョークと青いチョークを足すの?」
と問うている*1。色は違っても同じチョークだという認識が不足しているのである。

通常、足し算の概念を考えるときは、個性の現れない同じものをたくさん用意してはじめるのだろう。例えば同じ形の正方形のタイル。同じ色、形のおはじき。碁石。何でも良い。「同じもの」であることがはっきり認識できるものからはじめていくわけだ。そしてやがて「1+1=2」という抽象へとたどり着く。

けんとくんはまだ具体的事物の個性を捨象して、「同じもの」を1つずつ用意したとき、合計が2となる、そういう意味での抽象的「1+1=2」を理解していないのだ。僕はそれを学習障害だというつもりはない。だが、教師はこの問題点を的確に把握し指導せねばならないのである。自分の境遇を嘆いている場合ではない。

なにが問題か。(その2)

そして准教授とのやりとり。
僕はあえてルビをふって

2進法では当然1足す1は10(じゅう)ですね。
コンピュータ世界の定義も1足す1は10(じゅう)です。
2の剰余系では1足す1は0。
ブール代数であれば1足す1は1になります。
文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。
論理演算でも1足す1は1。電子回路なんかで使うのがそうです。具体的には、複数の入力のうちどれかひとつでも1であれば、出力も1になる場合が論理和です。

と引用した。作品の中で役者は10を「じゅう」と読んだということを強調したいのである。この10は十進法でいうところの10ではもちろんない。十進法の10(じゅう)は、2進法では1010である。2進法で言うところの1+1は「じゅう」ではなく、「いちぜろ」とでも読まなければならない。2進法の世界の「10」は10進法の世界の「じゅう」とは異なる。「2進法では1足す1は『じゅう』になる」というのは、2進法と10進法を混同した言明で、「同じものが何か」ということに通じる誤りである。

「コンピュータの世界の定義」はよくわからないが、とりあえず細かなところは省いて、もうひとつ指摘しなければならないことがある。

文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。

という発言である。もちろん「じゅういち」という読み方は従前と同じ理由でよくない。「いちいち」と読むしかないだろう。だが、疑問はそれだけではない。
果たしてこれは「足し算」なのだろうか。「文字列結合子」というのはおそらく1+2=12であり2+1=21なのだろう。123+432=123432という具合に文字列をそのまま並べるわけだ。
でもこれって可換じゃないですよね。
何もない空な文字列を\phiと書くことにすると、任意の文字列a_1a_2\cdotsに対して、a_1a_2 \cdots+\phi=a_1a_2 \cdotsとなるので、これは零元である。
だが、この意味では、空ではないどんな文字列をもってきても、逆元がとれない。a_1a_2 \cdots+b_1b_2 \cdots=\phiとなる文字列b_1b_2\cdotsはない。可換でもないし逆元もないような単なる2項演算を「足し算」と呼び、「1足す1は2でない場合」の例として掲げることに、僕はかなり抵抗を感じる。

そうはいっても、学生は大変である。授業の内容について質問しようとしたら、いきなり「1足す1とは何かを述べよ。」である。
「2です。」と答えることが許される雰囲気じゃない。そんなことしようものなら「君、面白くないね。破門だよ。」と言われかねない。
なんだこのハラスメントは。笑。

閑話休題

このエピソードは重要である。
足し算とは何か。「同じもの」とは何か。この2つの重要な問題が提起されているのである。これは十分教育的な素材である。
だが伊東演じる女教師はもちろん准教授の方も、こうした問題にはとんと無関心で、自分の境遇を嘆くか、可能性は無限大だと興奮するばかり。
なんともお寒い展開なのである。

ほんとはわかってるだろ、お前。

寒い話にマジレスするのは馬鹿げているかもしれないけれど、馬鹿げたマジレスついでにもうひとつ言っておきたい。

けんとくんが、「お前、実はうそつきだろ。」といわれて「あなたの言うとおりです。」と答える場面。
けんとくんは、「ソクラテスプラトンパラドックス」を自力で発見したのだろうか。
確かにそうなのかもしれない。でも普通はどっかの本で読んだのだろうと推測する。天才でもなんでもない。
ともあれ、確実に言えるのは、彼には、「お前、実はうそつきだろ。」という問いかけに、このパラドックスを用いて応酬するという機転である。
たぶんそういう子は、普通に考えれば「頭の良い小学生」のはずである。そういう機転が利く子が、「1+1=2」に疑問をさしはさんだのである。
ほんとにそんなことってあるのだろうか。
僕には、この小憎たらしい小学生は、1+1=2の意味も猫を数えるという先生の指示もすべて理解したうえで、あえて教師をからかっているのだとしか思えないのである。

もちろん、教師は「ソクラテスプラトンパラドックス」なんかに混乱してはいけない。自己言及とか相互言及とか小難しい理屈をこねる准教授などはほっといて、なぜこの応酬がパラドックスになっているのかということを説明しながら、問題提起をするべきなのだ。すなわち、「うそつきはいつでもうそをつき、正直者はいつでもほんとのことを言う」という前提を疑わせればそれでよい。けんとくんがそこまで理解しているかどうかは知らないが、とにもかくにも、伊東美咲演じる小学校教師は、すべてわかった上でからかっている小学生に、いいようにあしらわれているのではなかろうか。

さらにいくつか気になる台詞がある。
「猫を数えるのよ。」
といわれたけんとくんが、
「どうして猫を数えるの?」
と聞き返す。

また
「どうしてチョークを足し算するの?」
と問い、
「それが算数だからよ。」
と答える教師に間髪入れず
「どうしてぼくたち算数をするの?」
と問い、絶句する教師に向かってさらに
「どうして僕たち勉強するの?」
と畳み掛けていく。
ついに教師は
「それは、それがあんたら子供の仕事だからよ!」
と逆切れしてしまうのだ。

だが、ここで

「どうしてぼくたち算数をするの?」

から

「どうして僕たち勉強するの?」

へと飛躍する発言を良く考えてみるべきだ。教師はまだ「それは勉強だからよ。」とは答えていないのに、である。
僕は、この種のやりとりに、「脚本家の創作」を強く感じる。すべてわかっている脚本家が裏で筋書きを書いているから、こうした飛躍や「ほんとはわかってるだろ、お前。」という突っ込みの余地が生まれているのではないか。実はこの脚本家、
ほんとうは「1+1=2」の意味を理解していないんじゃないか。
体に刷り込まれた1+1=2というルールとそれへのいろいろな違和感が調停できてないんじゃないか。
本当は「何で勉強するの」という動機を問う質問に答えられないんじゃないか。
などと邪推してしまう。物事の原理を問う「なんで1+1=2なの?」が、いつの間にか動機を問う「何でチョークを足し算するの?」「どうして僕たち算数をするの?」「どうしてぼくたち勉強するの?」へとすりかえられていく。僕には、そうした「すり替えの論理」が、小学生的なものにも、「天才児」的なものにも見えない。透けて見えるのは、脚本家自身の心象
1+1=2へのルサンチマン
ではなかろうか。なんだか大変気持ち悪いものを見てしまったのではないか?などと思うのだ。

まとめ

小学校教師は大変である。「なぜ、どうして」を連発する知的好奇心の観点からも、闇雲に走り回る体力の観点から言っても獰猛な小動物を御するのは並大抵のことではない。
ちょっとした「なぜ」に即座に反応できなければならない。ドラマで言うなら、「同じものは何か」とか「ウソつきはいつでもウソを言うのか」とか、「水平な虹はあるのか」といったことに即座に対処できる知識と機転が必要なのである。おまけに大勢の生徒が走り回るのを統御しなければならないのだ。大変大変。とてもまねできるものではない。お疲れ様なのである。

*1:しかし教師の答えは悪い。「それは足し算だからよ。」今は足し算の授業なのだということなのだろう。しかし、この発言はまったくの的外れで嘆かわしい。この教師も問題点を把握できない無能な教師でしかないのだ。