いまさら鳩山論文について

鳩山由紀夫首相がVoice誌に寄稿した「私の政治哲学」と題する論文が、ニュヨークタイムス紙に転載され多くの反響を生んだ。
私はこの件に関して、どのような経緯で掲載が決まったかとか、誰が英訳を作成したか、といったことについては何も関知していない。
しかも私は英語が苦手だ。

以下では、鳩山自身がVoice誌に掲載した文章を「日本版」、鳩山のウェブにある全文の英訳版を「英文版」と呼び、ニュヨークタイムス紙電子版に掲載された英文を「NY版」と呼称することにする。
NY版の冒頭数段落と、日本版・英文版の対応箇所を少しだけ検討してみたい。

結論的に言うと、鳩山論文は長文だが、全体としてある種の理想論に終始するきらいがあり、その点でとてもナイーブな代物だということである。
しかし、NY版はその論文の特定の部分を切り出して抄訳しているため、そのナイーブな議論がある種の過激さを持って読者に訴えかけてくることになる。
誰がしたにせよ、この抄訳はいささか原文とは異なった印象を与えるもののように思われる。

第1段落

NY版第1段落は次のように始まる。

In the post-Cold War period, Japan has been continually buffeted by the winds of market fundamentalism in a U.S.-led movement that is more usually called globalization. In the fundamentalist pursuit of capitalism people are treated not as an end but as a means. Consequently, human dignity is lost.

「資本主義の原理的追求のもとで、人々は目的ではなく手段として扱われ、その結果として人間の尊厳が失われてしまう。」というこの過激な一文が、おそらく今回の問題がおきる大きな一因であることは間違いないと思う。

しかし、まず指摘しておかなければならないことは、この一文が日本版の第一文ではないということだ。日本版では、グーテンホフ・カレルギー伯爵の「全体国家主義対人間」における主張を紹介しながら、友愛の概念について説明している。特に重要な次の部分を引用しておこう。

 カレルギーは昭和十年(一九三五年)『Totalitarian State Against Man (全体主義国家対人間)』と題する著書を出版した。それはソ連共産主義ナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省に満ちている。
 カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保障するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた。
 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」
 ひたすら平等を追う全体主義も、放縦に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段と化してしまう。人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。
  「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」
 彼の『全体主義国家対人間』は、こういう書き出しで始まる。
 カレルギーがこの書物を構想しているころ、二つの全体主義がヨーロッパを席捲し、祖国オーストリアヒットラーによる併合の危機に晒されていた。彼はヨーロッパ中を駆け巡って、汎ヨーロッパを説き、反ヒットラー、反スターリンを鼓吹した。しかし、その奮闘もむなしくオーストリアナチスのものとなり、彼は、やがて失意のうちにアメリカに亡命することとなる。映画『カサブランカ』は、カレルギーの逃避行をモデルにしたものだという。
 カレルギーが「友愛革命」を説くとき、それは彼が同時代において直面した、左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だったのである。

この部分を受けてこその「human dignity has been lost」なのである。この文脈を理解しないと、いきなり反資本主義的な過激発言をしているように誤解されてしまう。

そして次に指摘しなければならないのは、日本版の対応箇所との相違である。
日本版の対応箇所は次のように言う。

この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの「自由」、その「自由の経済的形式」である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことに改めて気が付いた。

英文版では

post-cold war Japan has been continually buffeted by the winds of market fundamentalism in a US-led movement which is more usually called globalization. Freedom is supposed to be the highest of all values but in the fundamentalist pursuit of capitalism, which can be described as ‘freedom formalized in economic terms’, has resulted in people being treated not as an end but as a means. Consequently human dignity has been lost. The recent financial crisis and its aftermath have once again forced us to take note of this reality.

となっている。

この文章をみてわかるのは、「自由」というものに対する文脈がNY版で完全に削られているということである。
日本版での議論は、カレルギーの議論を引用しつつ「至上の価値であるはずの自由」、あるいはそれを体現した経済形式であるところの資本主義が原理的に追求されると、人々は目的ではなく手段と化す*1といっている。これは、あからさまな反資本主義であるというよりは、自由に内在する問題点を述べている文脈だと解するべきなのではなかろうか。

もうひとつ付け加えると、
Freedom is supposed to be the highest of all values but in the fundamentalist pursuit of capitalism, which can be described as ‘freedom formalized in economic terms’, has resulted in people being treated not as an end but as a means.
という一文は、私には意味がわかりにくい。
この文章の主語は、おそらくFreedomなのだろう。Freedom has resulted in people なのだろう。
being treated not as an end but as a meansもわかりにくい気がする。
こうなると文章を例えば2つに分けて、後半の主語をpeopleにしたくなる。
people are treated not as an end but as a means.
とNY版のようにである。これで文意はかなりはっきりしたかのように見える。しかし、人々を目的ではなく手段として扱うのは何かという問題は残る。
日本版では、Freedomが人々を目的ではなく手段として扱うのだ。
自由という考え方が原理的に追求されたとき、その考え方そのものが人々を目的としてではなく手段として扱ってしまうことになるといっているように見えるのである。
だからこそ、日本版・英文版はいずれも、Freedomの性質を述べている文章だと解すべきだと思うのである。
いきなり「資本主義の原理的な追求の中で、人々が目的ではなく手段として扱われる」と書くと、これはもはや完全な反資本主義である。
しかし「自由」という考え方が原理的に追求されるとき、「人々を、目的ではなく手段として扱う」と書けば、これは行過ぎた「自由」に対する警句であろう。
「「自由」という概念を体現した経済的形式が資本主義である以上、資本主義が行き過ぎれば、人間の尊厳は失われてしまう」というのは、完全な反資本主義というよりは、
自由というものの持つ危険性を念頭に置いた、資本主義の行き過ぎに対する危機感の表明なのだろう。

これは現実主義的な感想というよりは、やはり理念的な感想に思えてならない。

そして最後にもうひとつ。
この文章は、すぐれて国内向けのものとして書かれているという印象を受ける。
日本では、格差社会下流社会といった言葉が一世を風靡したように、行過ぎた資本主義、市場原理主義的なものへの危機感や違和感というものを一定程度許容しているという現実がある。
自由という考え方の原理的追求が、必ずしも人々を人間的に扱うとは限らないことに、一定の共通理解がある。
しかし、果たしてアメリカでもそうであるかどうかはやや心許ない。
そして同時に、不用意に「反資本主義的」発言をすることが、アメリカの人々の心情を刺激することは明白であり、もし掲載されるなら、慎重な言い回しが必要だと、誰でも気が付くのではなかろうか。
この意味から言って、やや理想論的な観点から「自由」の行き過ぎに対する警句を発することと、現在の金融危機や資本主義、グローバリズムを結びつける部分に、議論の甘さがあるように思えるのである。
NY版の編集はかなりひどいと思うが、必ずしも相手方だけの責任とも言い切れない面もある。

第2,3段落

NY版の第2,3段落は次のような文章からなる。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism, that are void of morals or moderation, in order to protect the finances and livelihoods of our citizens? That is the issue we are now facing.

In these times, we must return to the idea of fraternity as in the French slogan “liberte, egalite, fraternite” as a force for moderating the danger inherent within freedom.

対応箇所の日本版は以下の通りであり、

道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それが今われわれに突きつけられている課題である。
 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして、「友愛」を位置づけたことをあらためて想起し、再び「友愛の旗印」を掲げて立とうと決意した。

英文版は以下の通りである。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism that are void of morals or moderation in order to protect the finances and livelihoods of our citizens? That is the issue we are now facing. In these times, I realized that we must once again remember the role for fraternity identified by Coudenhove-Kalergi as a force for the moderating the danger inherent within freedom. I came to a decision that we must once again raise the banner of fraternity.

やはり、鳩山論文の主旨は「自由に内在する危険性の抑止」のための「友愛」なのである。NY版を第1段落から読んでいくと、ここで唐突にfreedomが登場する。きわめて唐突に感じられる。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism, that are void of morals or moderation, in order to protect the finances and livelihoods of our citizens?

は、もはや完全なる反資本主義の高らかな宣言であるとも取れる。しかし、「道義と節度を失った資本主義」というのは、「行き過ぎた自由」のひとつの体現である。危険性を持ってはいてもなお「自由は至上の価値」なのである。このことは日本版・英文版では宣言されているが、NY版では削られている。NY版はとにかく完全なる反資本主義の立場であるという読解から編集している。

第4段落

この直前、日本文・英文では

私にとって「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である。そして、われわれが目指す「自立と共生の時代」を支える時代精神たるべきものと信じている。

What does fraternity mean to me? It is the compass that determines our political direction, a yardstick for deciding our policies. I believe it is also the spirit that supports our attempts to achieve ‘an era of independence and coexistence’.

と述べているが、NY版では削られている。率直に言って、鳩山の言う「自立と共生の時代」「友愛革命」という理念は、やはりやや具体性に欠ける部分があり、いきなりそんな宣言をぶつけても仕方ないと思われたのかもしれない。NY晩は上の部分を削って、次のように続けている。

Fraternity as I mean it can be described as a principle that aims to adjust to the excesses of the current globalized brand of capitalism and accommodate the local economic practices that have been fostered through our traditions.

「自由」という文脈をずたずたにされてしまうと、この文章は、伝統的価値への回帰と反グローバリズム宣言に読めてしまう。
そしてもうひとつ、対応する日本文・英文の箇所

 現時点においては、「友愛」は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われてきた国民経済との調整を目指す理念と言えよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。

In our present times, fraternity can be described as a principle that aims to adjust to the excesses of the current globalized brand of capitalism and make adjustments to accommodate the local economic practices that have been fostered through our traditions. In other words, it is a means of building an economic society based on coexistence by switching away from the policies of market fundamentalism and towards policies that protect the livelihoods and safety of the people.

を読むと、NY版は「共生」というkey wordも完全に削り取っていることがわかる。
確かに、鳩山論文の中から「反資本主義」「反グローバリズム」といった主張だけを取り出すことは可能だが、実際には、「自由の行き過ぎに対する警句」と「共生社会の建設」という2つの観点も含まれている。
私には、NY版の抄訳があえてそうした観点を削り取り、「反資本主義」「反グローバリズム」といった主張だけを際立たせているように思われてならないのである。

そして今回のメインディッシュである第5段落がやってくる。

第5段落

NY版は次のように続ける。

The recent economic crisis resulted from a way of thinking based on the idea that American-style free-market economics represents a universal and ideal economic order, and that all countries should modify the traditions and regulations governing their economies in line with global (or rather American) standards.

私なりに訳すと
「今回の金融危機は、
アメリカ式の自由経済こそが普遍的でしかも理想的な経済秩序であり、すべての国は、その国の経済政策上の伝統や規制をグローバルスタンダードへ修正していくべきである
とする考え方に起因している。」
となるだろうか。
The recent economic crisis resulted from a way of thinking....
に注目してほしい。「今回の経済危機は、...という考え方によって引き起こされた」のである。これはきわめて過激な主張である。
アメリカ式自由経済を世界へ広めようとするアメリカンスタンダードの考え方を原因として、今回の経済危機という結果が生じたと主張しているのである。

日本版はこうだ。

言うまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終焉後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、グローバルエコノミーとかグローバリゼーションとかグローバリズムとか呼ばれた。
 米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(実はアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。

英文版はこうである。

It goes without saying that the recent worldwide economic crisis was brought about by the collapse of market fundamentalism and financial capitalism that the United States has advocated since the end of the Cold War. This US-led market fundamentalism and financial capitalism went by many names including the "global economy", "globalization" and "globalism". This way of thinking was based on the principle that American-style free-market economics represents a universal and ideal economic order and that all countries should modify the traditions and regulations governing their own economy in order to reform the structure of their economic society in line with global standards (or rather American standards).

ここで言っているのは、今回の経済危機の原因が、「市場原理主義や金融資本主義の破綻」にあるということである。これはNY版と意味が全く異なる。

「Aという考え方によってBが生じた。」

は、結果Bの原因にAという考え方があるという主張である。しかし、

「Aという考え方の破綻によってBが生じた」

は、なぜAが破綻したのかという原因については触れずに、Bの原因は「Aの破綻」だといっているだけである。AがBを招来するのではない。Aが破綻するとBが生じるのである。繰り返すが、後者はAという考え方の正邪については何も述べていない。しかし危機がnegativeな状況だとすれば、「Aという考え方によってBが生じた。」は、Aという考え方自体がBというnegativeな要素を招来する何かを内在していることを主張しており、Aという考え方が邪であることも含意している。後者はAが破綻しなければ、Bというnegativeな状況は起きないかもしれないわけで、破綻しないようにAという考え方を運用できれば問題ないかもしれない。Aという考え方自体に反旗を翻しているのではない。ここに至って、NY版は日本版の意図を完全に失している。

確かに、鳩山論文は、反資本主義や反グローバリズムを宣言していると読めなくもない箇所が多々あるが、それは、自由の行き過ぎに対する警戒感と共生社会の構築というテーマと並ぶひとつのテーマに過ぎない。にもかかわらず、NY版は、反資本主義や反グローバリズムと読める部分だけをかなり意図的に抽出した(orその部分だけに目が行き過ぎた)ために、経済危機を招いた理由がグローバリズムそれ自体にあるという「反グローバリズム」的主張をしているに違いないと誤読してしまったのではなかろうか。

もう少し混ぜっ返してみる。
例えば、次のような書きぶりも可能だ。

「Bというnegativeな状況が今起きている。これは、Aという考え方が破綻していることを意味している。」

集合論的に言えば、

  • 「Aという考え方によってBが生じた。」は「A⊂B」。

 Bが起きた原因はたくさんあるかもしれないが、Aという考え方にはBを生む内在的な理由がある。

  • 「Aという考え方の破綻によってBが生じた」は「Aの破綻⊂B」。

 Bを生じる原因はたくさんあるかもしれないが、Aが破綻すれば(必ず)Bになる。

  • 「Bというnegativeな状況が今起きている。これは、Aという考え方が破綻していることを意味している。」は「Aの破綻⊃B」。

 Aが破綻したらいろいろなことが起こるだろうが、Bは(必ず)起きる。

私は、鳩山の主旨がどういうことなのか本当のところはよくわからない。
世界経済危機が、なぜグローバリズムの破綻によってもたらされるのか、その根拠は不明である。
穏当なところでいくと、今回の世界経済危機を見ると、やっぱりグローバリズム一辺倒ってのはまずいんじゃないの?的な感想になってもよいような気もする。
それは、どちらかというと三番目に近いのかもしれない。

私は、今度の国会で、野党自民党の議員がNY版を片手に、鳩山首相が今回の経済危機の原因とグローバリズムの関係をどう捉えているのか詰問する場があっていいと思うのだ。

*1:例えば、サブプライムローンの問題では、ローン購入者は、家を買うというその人の幸福のためというよりも、金融産業がバブリーな肥大化を遂げるための道具だとみなされたのではないか。その意味で、現在の金融資本主義は、道義と節度を失っているのではないか、といっては言い過ぎなのであろうか。“human dignity has been lost”は読み手にはかなり衝撃的で、アメリカの否定的な反応はこの一文に大きな原因があるように思われる。しかし、国内的には、金融資本主義の行過ぎた例のひとつがサブプライムローン問題なのだというある程度の共通理解はあるのではなかろうか。アメリカでの受け止め方を知りたいところではある。