2012年度センター試験現代文第1問「境界としての自己」(木村敏)を解説します。

第1問:木村敏「境界としての自己」からの出題。

全体概観

個体の生存欲求と集団の存続という統一的行動との比較を試みる前半の議論は比較的分かりやすい反面、境界という概念を導入して自己を捉える後半の議論は、内容的な点をきりきり詰めようとするとかなり難しいと思われます。しかし、各問題の選択肢は内容をきりきり詰めなくても選択できるという意味で比較的容易であると考えられます。

設問別解説

設問解説にさっさと進みましょう。
問1
いつもの通り5題の漢字問題です。どれも選択に迷うものはないように思います。(オ)の選択肢にある漢字は5個すべて正確に書くのは少しレベルが高いかもしれませんが、尽力を選ぶのは容易でしょう。

問2
「ある個体と関係を持つ他の個体たちもやはり当の個体の環境を構成する要件となる」という傍線部が「どういうことか」を選ぶ問題でした。
この問題の第一のポイントは「他の個体」が「環境の一部」であるという主張を正しく記述しているものを選ぶことです。この点で「空間」を問題にしている選択肢5は外れます。
他の4つの選択肢は、「配偶者をめぐって競い合う他の個体」、「協調して生活をしていく異種の個体」、「生息圏に生い茂る様々な植物」、「食行動などの場面で交わる他の個体」 といずれも「他の個体」が「環境の一部」であることを述べています。
厳密に言うと選択肢1,2,3は、「関係を持つ他の個体」の中の具体的な事例に限定しているという点でやや難があるということもできますし、これで選択肢4という正答にたどり着けると強調する人もいるようです。
しかしあとで見るように正答の「気象のような自然現象」もある意味で例示なわけですから、具体例に限定しているということだけで不適切と断定するのはいかがなものかと思います。

ここでは第二のポイントとして、傍線部にある「他の個体たち」という表現に着目しましょう。
「ある個体」にとって何か別の「環境の一部」となっているものがあって、それらに加えて「関係を持つ他の個体」も「環境の一部」だといっているわけです。
従って、選択肢にある「加え、」の直前の内容は「関係を持つ他の個体」とは別の内容を述べていなければなりません。
この点で選択肢1と選択肢2は、「種の存続を担う子孫のような存在」、「食物をめぐる争いの相手」ですから、いずれも個体を取り扱っており明確に外れます。
問題は選択肢3です。本文では個体内部さえ「環境の一部」だという記述は確かに出てきますが、それは傍線部の後ろにあり、「さらには当の個体の諸条件・・・」と続いていますから、傍線部の「も」に相当する内容としては不適切です。
ということで正答は選択肢4の「ある個体にとって、気象のような自然現象に加え、食行動などの場面で交わる他の個体もまた環境の一部となること」となります。
厳密に言うと本文中で「自然現象」のようなものが「環境の一部」だと明示的に述べられているわけではありません。しかし、「寒暑や風雨を避けるために住居を確保したり」とか「生き物がその環境から栄養を摂取する食行動」というような記述からは、 「環境」としてその個体の回りの自然環境は当然想定されているものと理解するべきでしょう。

問3
「思いもかけぬ複雑な構造をもっている」という傍線部が「どういうことか」を説明する問題です。
この問題で第一に注意しなければならないのは、この傍線部の記述は、人間ではない他の一般的な生物個体の話をしているということです。傍線部の直後に、「右に見たとおりなのだか」とあることや、「これがそれぞれに確固とした自己意識を持っている人間集団の場合となると、その複雑さも飛躍的に増大する」とあることからもわかります。

そうすると、何が「思いもかけぬ複雑な構造」なのかといえば、「個々の個体レベルでは個別の生存欲求に従って行動しているにも関わらずそれらの集団としての行動において集団の統一的行動が保たれる」ということに他なりません。
これは比較的易しい設問です。選択肢5はほとんど本文の記述をそのまま書いています。これが正答です。

他の選択肢を検討しましょう。
選択肢1にはそもそも「個体の生存行動」と「集団の生存行動」という比較がありません。これが矛盾しないということが傍線部の意味ですから外れます。「集団からの自立をはかることで個体としての存在を保っている」も本文にはありませんし、少し細かく見ると「緊張関係を常にはらんでいる」というのも少し言いすぎで協力関係もありえることは言及されています。
選択肢2では「集団行動の統一性の内実が常に変容している」というのがまずい記述です。「集団の生存」という統一的行動は変わっておらず、それと個々の個体の生存欲求とが摩擦なく両立していることがポイントです。 その点でこの選択肢も「個体と集団」の比較が弱いとも言えるでしょう。
選択肢3と選択肢4は、いずれも集団の統一的行動のために個々の個体の行動が何らかの意味で限定されていることを述べています。「集団として常に最適な結果を生み出す調整がはかられる」や「おのずとその可能性は封じ込められる」という記述がそれです。 そうした「個体の行動に制限がかかること」は本文では述べられていません。各個体はあくまで集団の生存など念頭に置かずに自分の欲求に従って行動しているだけなのに、集団としての生存という統一性は何も脅かされないのです。
というわけで他の選択肢は外せます。
(とはいえ、人間以外の集団で本当にそうした集団の統一的行動と個体の生存欲求とが衝突しないのかどうかについてはなんともいえないという感覚はあります。この辺から筆者木村氏の論が怪しげなものに見えてきます。少なくとも私には。)

問4
「生物としての人間の、最大の悲劇」という傍線部が「どういうことか」を説明する問題です。
内容的な説明は簡単です。何が人間とそれ以外の生物とで違うかといえば、それは「個体の生存欲求」と「集団の存続という統一的行動」とが衝突/矛盾するという事態が起きることにあります。
その原因は、人間のみが「自己意識」というものを獲得したためだと筆者は言っています。
この観点をほぼそのまま記述しているのが選択肢1で、これが正答です。

他の選択肢を検討してみましょう。
選択肢4からいきます。本文で問題とされているのは、各個体の生存欲求とその個体が属している集団の存続との間で衝突が起きることです。この選択肢ではその観点がありませんし、異なる2つの集団の間の闘争の話は本文では言及がありません。
選択肢3では、「他の生物との対決能力が弱まり」という部分が本文で述べられておらず不適切です。個体と集団の対立も明示的とはいえません。
選択肢5でも、個体の欲求の観点が不足していますし、「環境に大きな変化をもたらし」という部分は本文では述べられていません。あくまで個体AとAが属する集団Xに限定された話です。
残った選択肢2を検討します。
「集団全体の統制を優先して、個体の欲求を抑圧する状況をが生み出される」というのは勇み足です。本文ではあくまで「個体の生存欲求」と「集団の存続」とが矛盾するという事態が起きるとだけしか述べられていません。 個体の欲求が抑圧されるかどうかはわからず、個体の欲求を優先させて集団が崩壊することもあるはずです。同様に「他の生物には見られない強固な集団維持という目的を共有する社会を形成した」というのも踏み込みすぎでそこまでは本文中で言及されていません。

問5
「しかしそのようなイメージは、特異点としての『私』という自己を考える場合には適切ではない。」という傍線部は、筆者のどのような考えによるものかを説明する問題です。
まず第一に理解しなければならないのは、「そのようなイメージ」というのがどういうものかということでしょう。それは直前に書いてあるように、「他者=外部世界」と「自己=内部世界」とが「境界」を用いて仕切られ相互作用しているというイメージに他なりません。

第二に理解しなければならないのは、「適切でない」と筆者が考える根拠です。それは傍線部の後ろに書かれています。私とは円の中心であり、中心自身が内部である以上、私=円の中心とは内部と外部の境界それ自身だということだからです。

はい。意味不明です。少なくとも私には意味不明です。残念なことに、円の中心=自己から、円の中心は内部空間を持たないから境界だと言い、自己=境界という結論へ導かれる理屈が私には理解できません。円の中心が境界だと言われても、私は理解できません。通常の感覚ではついていけないとさえ思います。でも、その理屈はともかく、筆者が主張しているポイントは、私=円の中心であり私=境界です。この点から選択肢を検討してみましょう。

選択肢3がほとんどそのまま上のことを言い換えています。「外部空間との対立関係で自己をとらえる見方は、境界に隔てられた空間的な内部世界を想定している」は○。「絶対的な異質性をもつ『私』の自己意識は内部空間を持たない円の中心のようなものであり、むしろ他者との境界そのものに他ならない」も○です。 とりあえずこの選択肢を外す理由はないように見えます。

他の選択肢を検討しましょう。

選択肢1の前半は○です。しかし後半の最後にある「『私』の内部世界の意味が変わり境界は相対的なものになってしまう」というのは不適切です。筆者の議論では、「境界」は相対化されません。相対化というのは、例えば他者との関係の中に定まるようなものののことです。 普通は、境界といえばそれは内部と外部を仕切るものとして定まるいわば「相対的」なものでしょう。しかし、いささかレトリカルに言えば、筆者の論に従うと、境界こそ「私=円の中心」という「絶対的」なものなのですから、境界は相対化されません。

選択肢2は全体的に適切ではない記述になっています。まず第一に、「境界を等質空間に設定する」というのは、傍線部の「そのようなイメージ」について述べており、それによって「特異な自己の位置を定める精神分析的な『私』のとらえ方」が「安定的に成立する」というのは筆者の見方ではありません。 筆者はそれを適切ではないと言っています。その理由はこのとらえ方が後半にあるように「自らを特権化しすぎしまう」からだということではありません。 「私」が「特権的な位置にいる」ということこそが「境界を等質空間に設定する」ことの不適切さの根拠なのです。これは筆者の論と議論の向きが逆になってしまっているようです。私が特権的な位置にいるということそれそのものが「私=境界」なのであり、境界が自己と他者、あるいは内部と外部とを隔てるものという見方の不適切さなのですから。

選択肢4でも同様で、前半の「個体の外部に境界を設定して自己の絶対的な異質性を確立する『私』の世界のとらえ方は、特権的な一人称代名詞のはたらきによって強く支えられている」というのが筆者の主張と合致していません。 筆者の主張は「特権的地位にあるということ」つまり「私=円の中心」であるということをもって「境界によって自己と他者を区別するという見方」が不適切なのだといっているのです。 後半の「境界は共有される」も適切ではないでしょう。本文では、「個体Aにとっての私=境界」と「個体Bにとっての私=境界」とがどういう関係にあるのかということは述べていません。共有されるかどうかは言及がないのです。 (とはいえ、2つの境界の関係はどうなっているんだと筆者木村氏を問い詰めるべきだとは思います。)

選択肢5は、「当の内部世界にある事故意識は自らが空間的中心にあることを合理的に証明できないので」という部分が不適切です。「私=円の中心」なのです、筆者木村氏にとっては。私=円の中心だから私=境界なのです。(合理的に証明できていないのは木村氏であって、)合理的に証明できないから私=境界なのではありません。

以上でやはり本文を大体なぞっている選択肢3はやはり正答です。

問6
この文章の論の展開について適切な説明を選ぶ問題です。

選択肢を検討しましょう。
選択肢1では、「個々の個体の場合と複数の個体の場合との異なりを明らかにしている」というのが適切とはいいにくいです。人間以外では異なっていないことを述べているからです。最後の「生命の営みを物理空間に投影する方法によって立証している」もおかしいでしょう。 本文にある「生命の営みは、これを物理空間に投影してみると、すべて境界という形を取るのではないか。」はいわば結論であって立証の方法ではありません。中段の「人間の自己意識が自己と他者との境界にしか生まれえないとの結論づけ」というのも少しまずそうです。 筆者にとっては、「境界」は自己と他者を隔てるものというより「円の中心」という特権的なものなのですから。

選択肢2では、「集団の場合を対象として考察している」がまずいです。個体の場合も言及していますし、個体と集団の間の衝突が問題になっているのでした。その点でも「個の集団に対する関係がその複雑さを増大させている」というのもどんぴしゃりな指摘とはいいにくいと思います。 また、後半の、「個々の個体だけでなく集団全体においてもともに他者との境界を生き、それを自己が意識している」というのも筆者の主張とはズレています。やはり「自己意識」は「特権性を認識すること」にあるわけです。「他者との境界を生き」というのではありません。

選択肢3では、最初に「結論」が明示されているとする内容なので明確に外れます。本文の最初には「私=境界」という結論は述べられていません。

選択肢4では、「個体と集団それぞれの場合を対象として考察」は○。「他の生物に比して人間は、自己意識の存在が集団と個体との関係を難しくしている」も○。「人間の自己意識は境界を意識するところに生まれ、そこに生命の営みがある」も○。これが正答です。

選択肢5では、「まず(中略)その境界には何があるのかという問題を提示している」という内容が間違っています。問題の提示は冒頭にはありません。中段の「その問題を一般化するために自己意識の存在に着目する」というのも不適切です。一般化ではなく、「人間」という特別な存在について議論を進めているのですから。
というわけで正答は選択肢4となります。

あとがきという名の主観的意見の表明

全体的に見たとき、率直に言って次のように言ってよいと思います。本文は意味不明。しかし問題は易しい。なぜかといえば、本文の記述をなぞっているものを選べば正答だからです。 本文で筆者木村氏が言おうとしていることは、ほんとのところどういうことなんだろうとか考える必要がほとんどなく、というよりそういうことが難しい以上なおさら、本文の記述にそったものを選べばよく、 本文の内容に何か追加されてしまっているような選択肢は外せばよいのです。だから問題の難易度は「易」と付けるしかないです。

ここまでの解説でも、こみ上げる想いを押さえきれずに皮肉ってしまいましたが、あえてはっきり言えば、
「円の中心=境界」って何を言ってるんだあんた?
ってことですよ。「『私』自身ですら、これを意識したとらんに中心から外で押し出される」とか、「中心それ自身を『内部』と見るなら、中心は『内』と『外』の境界それ自身だということになる」とか意味不明もいいところですよ。 おまけに最後で筆者はひどい宙返りをしてみせています。筆者がここまでいってきたことは、「生命の営みとは境界の形を取るのではないか」ということでした。いわば、「生命の営み⇒境界」です。 しかし最後で、
「逆に言って、われわれの周りの世界にあるすべての境界には─空間的な境界も時間的な境界も含めて─そのに常に定かならぬ生命の気配が感じられるといっていい。この気配こそ、境界というものを合理的に説明し尽くせない不思議な場所にしているものなのだろう。境界とはまだ形をとらない生命の─ニーチェの言葉を借りれば「力への意思」の─住みかなのではないか。」
とか言ってしまうのです。「逆は真ならず」とはこのことであって、見るもの全ての境界に生命を感じているなんてちょっと理解できません。
結局この本文では、「境界」ということばがかなり多義的に用いられすぎていて意味が明瞭ではないし、筆者の言う「特異点としての自己」=「円の中心」まではよくても、それを「境界としての自己」と読み替える理屈がわかりません。少なくとも私には。

蛇足的に言うと、「境界としての自己」という場合には、僕の感じでは次のような意味で理解するのが普通なんじゃないかと思います。 私という自己は、他者との関係性の中で自己意識を持つわけですから、当然それは他者とは区別された何かであるはずです。しかし、実はよく考えてみると、私という自己は、 例えば「いまこう感じている/考えている/行動している私」を外から眺めることができる存在でもあります。 いま私は定理を証明した。その次の瞬間、それが本当に正しいかを検証している私がいることに気が付くはずです。 私という自己は「私」をいわば外側から眺めることができる存在でもあるわけです。他者とは別のものとして隔てられているにもかかわらず、それを外側からも眺められる位置に「私という自己」がいる。 これはまさに「私という自己」は「境界」にこそ宿っているということではありますまいか。