2012年度センター試験現代文第2問「たま虫を見る」の解説をしまーす。

第2問。井伏鱒二「たま虫を見る」からの出題。

全体概観

全体としてみると、やはり明示的な形で本文に書かれているかどうか微妙な部分もあり、問2、問3、問6の2つめの正答などが少し選びにくい印象もあるために、少し迷う出題になっているように思いました。

設問別解説

さっそく設問ごとに見ていきましょう。
問1
例年通り語句の辞書的な意味を問う出題です。いずれも容易に選べるものばかりでした。

問2
「私はもとの悲しさに戻って泣くことを続けたのである」という傍線部に書かれた主人公の心情を選ぶ問題です。

この問題の第一のポイントは、「もとの悲しさ」というのが何であるかを押さえることです。兄の浅慮を嘲笑して「叔母さんに言いつけてやろう」と言った主人公に対し、兄は「言ったらなぐるぞ!」と言い、(おそらく主人公が叔母さんに言いつけていないのに)主人公を殴ります。主人公は、「木立の中に駆け込んで、このことは何うしても叔母に言いつけなくてはならないと考えながら大声に泣いた」とあります。これが「もとの悲しさ」です。

このことに対して、選択肢1は、「兄に殴られて木立の中に駆け込んだときの悔しさ」とし、選択肢2は、「抵抗もできずに兄から逃げ出したときの臆病さ」、選択肢3は「兄に歯向かうことのができなかった情けなさ」、選択肢4は「兄の粗暴な振る舞いに対する怒り」、選択肢5は「兄を正面から諭さなかったことを後悔し」としています。どれもそれなりに理解できる心情なので絞り込むのは難しいかもしれません。強いて言えば、「正面から諭さなかったことを後悔」というのが読み取れないという点でしょうか。

次に、「泣くことを続けた」ということの心情をどう記述するかです。そのために傍線部の直前にある「私はこの虫を兄にも見せてやろうと思ったが、兄の意地悪に気がついた。叔母は私が算術を怠けたといって叱るに違いなかった。誰にこの美しい虫を見せてよいかわからなかった。」とあることに注目する必要があるでしょう。これは、選択肢2にある「いつ見つかるかわからないという恐怖」ではありませんし、選択肢3にある「自分の切実な望みが兄や祖母によって妨げられることへの憤り」でもありません。選択肢4は「仕返ししようとしても叔母への告げ口しか思いつかない」とあり、それはそれで事実かもしれませんが、「たま虫を兄に見せるのをやめた」ということに対する説明としては弱すぎます。

選択肢5は、「自分の行動の意図が兄はもちろん叔母にも理解されないだろうという失望感」とあります。「自分の行動」が「たま虫を見せること」だとすれば概ねこうした心情は読み取れそうな感じです。しかし「自分の行動」の指すものは少し曖昧です。「正面から兄を諭さなかったこと」や「言いつけてやる」と言ったことや「木立の中に逃げ込んだこと」かもしれません。選択肢1に戻ると、「誰とも打ち解けられずに一人でやり過ごすしかない寂しさをかみしめている」というのは「誰にこの美しい虫を見せてよいかわからなかった」という記述と対応したものと読めるように思われます。選択肢5と比較すると前段、後段とも選択肢1の方が明確なので適切だと考えられます。
(とはいえ、この設問は本文に明示的な根拠があるのかといわれると少し微妙な感じです。)

問2
「私たちはお互に深い吐息をついたり、相手をとがめるような瞳をむけあったりしたのである。」という傍線部にいたるまでの二人のやり取りの説明を選ぶ問題です。まとめサイトでも話題になった主人公と恋人のやりとりです。レインコートの胸にとまった「たま虫」を叩き落としておまけに草履で踏み潰す恋人とそれに驚く主人公の掛け合いをどう読み解くかが問われています。

選択肢を検討してみましょう。

選択肢2にある「悲しい体験を思い出させるたま虫が恋人との密会時に現れたことにとまどい、過去の経験にとらわれている」という記述はさすがにありません。むしろ主人公は「たま虫」を叩き落されたことに驚いているので、できればそのまま美しい虫を見たかったわけで、過去の経験にとらわれているわけではないでしょう。これは外れます。
選択肢3にある「私は、肩においた手をたま虫を口実にして恋人に振り払われたと考えて、ショックを受けている」も本文にそうした記述はありません。むしろ主人公は「たま虫」に注意を向けているのですから適切とは言えないでしょう。これも外れます。

ここまでは簡単に外せるのですが、問題は残った選択肢1,4,5からどう正答を選ぶかです。主人公の気持ちとしては、選択肢1が「幼いときから好んでいるたま虫が邪険にされたことを悲しみ、恋人の優しさに疑いを抱いて発言している」としています。「幼いときから好んでいる」という表現は微妙ですし、「恋人の優しさ」を疑っているということが読み取れる発言は見当たらないように思われます。むしろ、主人公は「たま虫」を叩き落されたことに驚いて、なぜそんなことを恋人がしたのか疑問に思っているのでしょうから、選択肢1は微妙です。

その点でいくと選択肢5の「突然現れた美しいたま虫を無慈悲に扱われたことに驚き、恋人を責めるような発言をしている」は特に問題はないように思われます。
他方、選択肢4にある「幸福のシンボルとしてのたま虫が恋人との密会時に現れたので気持ちを高ぶらせ、それを恋人に伝えようとしている」というのは、ありえる話ですが、そこまで明示的に書いてあるのかといわれると微妙です。確かに本文冒頭に「たま虫」の色が「幸福のシンボル」と呼ばれていることが述べられていることや恋人が「お手紙をくれたら幸福だ」と言っていることもあるので、主人公の心情がこうしたものであったことは否定できないかもしれませんが。
というわけで主人公の心情を説明した前段でいうと、選択肢5が本命、選択肢4もありえる感じで、選択肢1はやや微妙という雰囲気になっているというところでしょうか。

今度は後段を検討する必要があります。それは、たま虫を叩き落し、ひいては踏み潰してしまった恋人の心情をどう理解するかということになります。
選択肢1は「自分よりもたま虫を大切に扱うかのような私の態度に驚き悲しんでおり」としています。選択肢4は「私がいったん肩に手を置きながらたま虫に気を取られたことに傷ついており」としています。選択肢5は「大切な二人の時間を邪魔したたま虫をはじき落としたのに相手が理解してくれないと思い」としています。どれも甲乙つけがたいように見えます。

ここで恋人の最後の発言「だってあなたの胸のところに虫がついていたんですもの」をどう理解するかが第三のポイントになります。主人公が肩に手をかけたのだから、そのあと二人は熱い抱擁を交わすのですね。恋人もその気になっていたわけです。と、そのとき相手の胸に虫がついていた。だから叩き落したわけです。とすると、恋人は「大切な二人の時間を邪魔された」と感じたという選択肢5はかなり有力です。この発言はかなり決め手になる発言だということになるのでしょう。もちろん主人公は恋人の肩に手をかけたにもかかわらず自分の胸の「たま虫」に気を取られたわけですから恋人が憤慨するのも当然で、選択肢4もありえるとは思います。「自分よりたま虫を大切に扱う」という選択肢1は少し踏み込みすぎに見えます。

3つの選択肢の結びは次のようになっています。選択肢1は「互いに不信感を持ち、うらめしいような気持ちになっている。」選択肢4は「互いに言葉が通じないことに苛立つ気持ちになっている。」選択肢5は「互いに落胆し、非難するような気持ちになっている。」この3つを比較してみると、「互いに深い吐息をついたり、相手をとがめるような瞳をむけあったり」という傍線部の記述をそのまま書いている選択肢5には瑕疵はありません。「不信」という選択肢1は少し踏み込みすぎですし、「言葉が通じないことに苛立つ」という選択肢4も少し踏み込みすぎだと思います。「言葉が通じない」はともかく、「苛立ち」は少し違う感じです。

以上のことをまとめるとやはり問題ないのは選択肢5ということなってこれが正答です。私は選択肢4もかなり微妙だと移りますが、選択肢5にほとんど問題がないのでこれを外すことはできないと考えるしかありません。

問3
「硝子にうつる私の顔が、泣き顔に見えた」という傍線部の理由を選ぶ設問です。

主人公の代わりに牛込署へ出頭してくれた友人が、エハガキ屋の前で顔をしかめている主人公の写真を見せられ、その写真には「危険思想を抱懐せるものの疑いあり」と書かれています。そこで主人公はエハガキ屋の前にいっていったいどういうときに取られた写真なのか確かめようとするのですね。エハガキ屋の飾り看板に裸体画や活動女優の写真があったわけで主人公はどうして写真に書き込みがされていたのか理解するわけです。そして目の前に「たま虫」を発見するのです。

というわけで、選択肢3にある「たま虫を捕まえようとしていたために警察に誤解されたのだと気がついた」は誤りですから外れます。主人公はたま虫を捕まえようと手を伸ばしかけるのですができません。それはまた写真にとられて誤解させることを恐れているからです。
ということは選択肢4にある「警察に疑われている立場を忘れて、突然現れたたま虫の美しさに心を奪われ、ながいあいだたま虫を眺めている自分にふがいなさを感じている」は誤りで外せます

残っている選択肢は1,2,5です。
選択肢2にある「たま虫を捕まえたいという長年の希望をかなえられない自分」という部分、特に「長年の希望」というのは少し違うように思われます。前半の「貧乏で社会的にも不安定な立場にあるとの理由で警察に疑いをかけられてしまう可能性があるため」もおかしいでしょう。既にその理由で警察に疑われているのですから。これで選択肢2も外せそうです。

選択肢1と選択肢5を見ると、前段は「警察に疑われたことを意識するあまり」という趣旨が共通しており、ここは主人公の心情として適切です。後段が問題です。選択肢5にある「以前から好きだったたま虫を偶然に発見しても、その美しさを感じる余裕をもてない自分に寂しさを感じている」というのは適切ではありません。主人公は、見つけたたま虫を美しいと思っていて手を伸ばしたいと思っているわけですから、「美しさを感じる余裕」がないのではありません。また写真を撮られることが怖いのですから、選択肢1にある「たま虫を捕まえることをためらってしまう自分に情けなさを感じている」は適切だし、「警察に疑いをかけられてしまった自分の立場を意識するあまり」も適切だと言えるでしょう。
このことから正答は選択肢1となります。

問5
「私は人を押しのけはしないのだと心の中で思いながら、実は少しばかり人を押しのけながら割り込む必要を覚えた」という傍線部に書かれた主人公の考えの説明を選ぶ問題です。
主人公は校正が下手だと頭を殴られても反抗しませんでした。それを受けての話です。

「押しのける」の説明として、選択肢2にある「自分の態度をわずかながら変化させることで、周囲とのより良い関係を保てるという可能性」や選択肢5にある「人々と共に生きるためには相手の気持ちに配慮しつつ」は適切ではありませんから外せます。また選択肢4にあるような「他人の言葉の裏には自分を支配したい欲求もあるのだから、時にはそれをはねのけた方がよい」というのは、「押しのける」の意味としては妥当性があっても、本文の流れにはあっていません。「自分を支配したい欲求」というのが強すぎます。
他方、選択肢1は幸せの見つけ方について述べていますが、このエピソードで「幸福」について読み取るのには無理があると思われます。
選択肢3の「社会の中で生きていくためには、自分の立場も守らなければならないことに気づきはじめている」とか「弱い人間だと知っているので、反抗せずに負けて不愉快な状況になるのは仕方がないとあきらめ」というのが本文のエピソードと符合しています。これが正答です。

問6
この文章の表現の特徴を2つ選ぶ問題です。
選択肢1にある「まず語り手が出来事の概略を述べ」は明らかにおかしいので外せます。
選択肢4にある「みずみずしさを保っている私の生」は語感からしても内容からしても明らかに本文と合致しませんので外れます。
選択肢6では、「幸福についての私の考え方の変化」とありますが、主人公が「今度たま虫を見ることがあるとすれば、それはどんな時だろう─私の不幸の濃度を一ぴきずつの昆虫が計ってみせてくれる。」というのは、 「幸福についての考え方の変化」というよりは、今までの自分とたま虫のかかわりを回想しながら、将来またたま虫に出会うときのことを考えているのでしょう。考え方の変化まで読み取ることはできそうにありません。
選択肢2は文句のつけようがありませんから正答です。
問題は選択肢3の「たま虫に自分自身の境遇を投影する私の心境が効果的に描き出されている」という記述の是非ですが、これは少し微妙かもしれませんが、「私の不幸の濃度を一ぴきずつの昆虫が計ってみせてくれる。」という文章や 選択肢4が死んだように生きている私とたま虫を対比しているのに対し選択肢3は私の生をたま虫に重ねているとしている点に着目すると、選びやすくなると思われます。
正答は選択肢2と選択肢3となりました。

2012年度センター試験現代文第1問「境界としての自己」(木村敏)を解説します。

第1問:木村敏「境界としての自己」からの出題。

全体概観

個体の生存欲求と集団の存続という統一的行動との比較を試みる前半の議論は比較的分かりやすい反面、境界という概念を導入して自己を捉える後半の議論は、内容的な点をきりきり詰めようとするとかなり難しいと思われます。しかし、各問題の選択肢は内容をきりきり詰めなくても選択できるという意味で比較的容易であると考えられます。

設問別解説

設問解説にさっさと進みましょう。
問1
いつもの通り5題の漢字問題です。どれも選択に迷うものはないように思います。(オ)の選択肢にある漢字は5個すべて正確に書くのは少しレベルが高いかもしれませんが、尽力を選ぶのは容易でしょう。

問2
「ある個体と関係を持つ他の個体たちもやはり当の個体の環境を構成する要件となる」という傍線部が「どういうことか」を選ぶ問題でした。
この問題の第一のポイントは「他の個体」が「環境の一部」であるという主張を正しく記述しているものを選ぶことです。この点で「空間」を問題にしている選択肢5は外れます。
他の4つの選択肢は、「配偶者をめぐって競い合う他の個体」、「協調して生活をしていく異種の個体」、「生息圏に生い茂る様々な植物」、「食行動などの場面で交わる他の個体」 といずれも「他の個体」が「環境の一部」であることを述べています。
厳密に言うと選択肢1,2,3は、「関係を持つ他の個体」の中の具体的な事例に限定しているという点でやや難があるということもできますし、これで選択肢4という正答にたどり着けると強調する人もいるようです。
しかしあとで見るように正答の「気象のような自然現象」もある意味で例示なわけですから、具体例に限定しているということだけで不適切と断定するのはいかがなものかと思います。

ここでは第二のポイントとして、傍線部にある「他の個体たち」という表現に着目しましょう。
「ある個体」にとって何か別の「環境の一部」となっているものがあって、それらに加えて「関係を持つ他の個体」も「環境の一部」だといっているわけです。
従って、選択肢にある「加え、」の直前の内容は「関係を持つ他の個体」とは別の内容を述べていなければなりません。
この点で選択肢1と選択肢2は、「種の存続を担う子孫のような存在」、「食物をめぐる争いの相手」ですから、いずれも個体を取り扱っており明確に外れます。
問題は選択肢3です。本文では個体内部さえ「環境の一部」だという記述は確かに出てきますが、それは傍線部の後ろにあり、「さらには当の個体の諸条件・・・」と続いていますから、傍線部の「も」に相当する内容としては不適切です。
ということで正答は選択肢4の「ある個体にとって、気象のような自然現象に加え、食行動などの場面で交わる他の個体もまた環境の一部となること」となります。
厳密に言うと本文中で「自然現象」のようなものが「環境の一部」だと明示的に述べられているわけではありません。しかし、「寒暑や風雨を避けるために住居を確保したり」とか「生き物がその環境から栄養を摂取する食行動」というような記述からは、 「環境」としてその個体の回りの自然環境は当然想定されているものと理解するべきでしょう。

問3
「思いもかけぬ複雑な構造をもっている」という傍線部が「どういうことか」を説明する問題です。
この問題で第一に注意しなければならないのは、この傍線部の記述は、人間ではない他の一般的な生物個体の話をしているということです。傍線部の直後に、「右に見たとおりなのだか」とあることや、「これがそれぞれに確固とした自己意識を持っている人間集団の場合となると、その複雑さも飛躍的に増大する」とあることからもわかります。

そうすると、何が「思いもかけぬ複雑な構造」なのかといえば、「個々の個体レベルでは個別の生存欲求に従って行動しているにも関わらずそれらの集団としての行動において集団の統一的行動が保たれる」ということに他なりません。
これは比較的易しい設問です。選択肢5はほとんど本文の記述をそのまま書いています。これが正答です。

他の選択肢を検討しましょう。
選択肢1にはそもそも「個体の生存行動」と「集団の生存行動」という比較がありません。これが矛盾しないということが傍線部の意味ですから外れます。「集団からの自立をはかることで個体としての存在を保っている」も本文にはありませんし、少し細かく見ると「緊張関係を常にはらんでいる」というのも少し言いすぎで協力関係もありえることは言及されています。
選択肢2では「集団行動の統一性の内実が常に変容している」というのがまずい記述です。「集団の生存」という統一的行動は変わっておらず、それと個々の個体の生存欲求とが摩擦なく両立していることがポイントです。 その点でこの選択肢も「個体と集団」の比較が弱いとも言えるでしょう。
選択肢3と選択肢4は、いずれも集団の統一的行動のために個々の個体の行動が何らかの意味で限定されていることを述べています。「集団として常に最適な結果を生み出す調整がはかられる」や「おのずとその可能性は封じ込められる」という記述がそれです。 そうした「個体の行動に制限がかかること」は本文では述べられていません。各個体はあくまで集団の生存など念頭に置かずに自分の欲求に従って行動しているだけなのに、集団としての生存という統一性は何も脅かされないのです。
というわけで他の選択肢は外せます。
(とはいえ、人間以外の集団で本当にそうした集団の統一的行動と個体の生存欲求とが衝突しないのかどうかについてはなんともいえないという感覚はあります。この辺から筆者木村氏の論が怪しげなものに見えてきます。少なくとも私には。)

問4
「生物としての人間の、最大の悲劇」という傍線部が「どういうことか」を説明する問題です。
内容的な説明は簡単です。何が人間とそれ以外の生物とで違うかといえば、それは「個体の生存欲求」と「集団の存続という統一的行動」とが衝突/矛盾するという事態が起きることにあります。
その原因は、人間のみが「自己意識」というものを獲得したためだと筆者は言っています。
この観点をほぼそのまま記述しているのが選択肢1で、これが正答です。

他の選択肢を検討してみましょう。
選択肢4からいきます。本文で問題とされているのは、各個体の生存欲求とその個体が属している集団の存続との間で衝突が起きることです。この選択肢ではその観点がありませんし、異なる2つの集団の間の闘争の話は本文では言及がありません。
選択肢3では、「他の生物との対決能力が弱まり」という部分が本文で述べられておらず不適切です。個体と集団の対立も明示的とはいえません。
選択肢5でも、個体の欲求の観点が不足していますし、「環境に大きな変化をもたらし」という部分は本文では述べられていません。あくまで個体AとAが属する集団Xに限定された話です。
残った選択肢2を検討します。
「集団全体の統制を優先して、個体の欲求を抑圧する状況をが生み出される」というのは勇み足です。本文ではあくまで「個体の生存欲求」と「集団の存続」とが矛盾するという事態が起きるとだけしか述べられていません。 個体の欲求が抑圧されるかどうかはわからず、個体の欲求を優先させて集団が崩壊することもあるはずです。同様に「他の生物には見られない強固な集団維持という目的を共有する社会を形成した」というのも踏み込みすぎでそこまでは本文中で言及されていません。

問5
「しかしそのようなイメージは、特異点としての『私』という自己を考える場合には適切ではない。」という傍線部は、筆者のどのような考えによるものかを説明する問題です。
まず第一に理解しなければならないのは、「そのようなイメージ」というのがどういうものかということでしょう。それは直前に書いてあるように、「他者=外部世界」と「自己=内部世界」とが「境界」を用いて仕切られ相互作用しているというイメージに他なりません。

第二に理解しなければならないのは、「適切でない」と筆者が考える根拠です。それは傍線部の後ろに書かれています。私とは円の中心であり、中心自身が内部である以上、私=円の中心とは内部と外部の境界それ自身だということだからです。

はい。意味不明です。少なくとも私には意味不明です。残念なことに、円の中心=自己から、円の中心は内部空間を持たないから境界だと言い、自己=境界という結論へ導かれる理屈が私には理解できません。円の中心が境界だと言われても、私は理解できません。通常の感覚ではついていけないとさえ思います。でも、その理屈はともかく、筆者が主張しているポイントは、私=円の中心であり私=境界です。この点から選択肢を検討してみましょう。

選択肢3がほとんどそのまま上のことを言い換えています。「外部空間との対立関係で自己をとらえる見方は、境界に隔てられた空間的な内部世界を想定している」は○。「絶対的な異質性をもつ『私』の自己意識は内部空間を持たない円の中心のようなものであり、むしろ他者との境界そのものに他ならない」も○です。 とりあえずこの選択肢を外す理由はないように見えます。

他の選択肢を検討しましょう。

選択肢1の前半は○です。しかし後半の最後にある「『私』の内部世界の意味が変わり境界は相対的なものになってしまう」というのは不適切です。筆者の議論では、「境界」は相対化されません。相対化というのは、例えば他者との関係の中に定まるようなものののことです。 普通は、境界といえばそれは内部と外部を仕切るものとして定まるいわば「相対的」なものでしょう。しかし、いささかレトリカルに言えば、筆者の論に従うと、境界こそ「私=円の中心」という「絶対的」なものなのですから、境界は相対化されません。

選択肢2は全体的に適切ではない記述になっています。まず第一に、「境界を等質空間に設定する」というのは、傍線部の「そのようなイメージ」について述べており、それによって「特異な自己の位置を定める精神分析的な『私』のとらえ方」が「安定的に成立する」というのは筆者の見方ではありません。 筆者はそれを適切ではないと言っています。その理由はこのとらえ方が後半にあるように「自らを特権化しすぎしまう」からだということではありません。 「私」が「特権的な位置にいる」ということこそが「境界を等質空間に設定する」ことの不適切さの根拠なのです。これは筆者の論と議論の向きが逆になってしまっているようです。私が特権的な位置にいるということそれそのものが「私=境界」なのであり、境界が自己と他者、あるいは内部と外部とを隔てるものという見方の不適切さなのですから。

選択肢4でも同様で、前半の「個体の外部に境界を設定して自己の絶対的な異質性を確立する『私』の世界のとらえ方は、特権的な一人称代名詞のはたらきによって強く支えられている」というのが筆者の主張と合致していません。 筆者の主張は「特権的地位にあるということ」つまり「私=円の中心」であるということをもって「境界によって自己と他者を区別するという見方」が不適切なのだといっているのです。 後半の「境界は共有される」も適切ではないでしょう。本文では、「個体Aにとっての私=境界」と「個体Bにとっての私=境界」とがどういう関係にあるのかということは述べていません。共有されるかどうかは言及がないのです。 (とはいえ、2つの境界の関係はどうなっているんだと筆者木村氏を問い詰めるべきだとは思います。)

選択肢5は、「当の内部世界にある事故意識は自らが空間的中心にあることを合理的に証明できないので」という部分が不適切です。「私=円の中心」なのです、筆者木村氏にとっては。私=円の中心だから私=境界なのです。(合理的に証明できていないのは木村氏であって、)合理的に証明できないから私=境界なのではありません。

以上でやはり本文を大体なぞっている選択肢3はやはり正答です。

問6
この文章の論の展開について適切な説明を選ぶ問題です。

選択肢を検討しましょう。
選択肢1では、「個々の個体の場合と複数の個体の場合との異なりを明らかにしている」というのが適切とはいいにくいです。人間以外では異なっていないことを述べているからです。最後の「生命の営みを物理空間に投影する方法によって立証している」もおかしいでしょう。 本文にある「生命の営みは、これを物理空間に投影してみると、すべて境界という形を取るのではないか。」はいわば結論であって立証の方法ではありません。中段の「人間の自己意識が自己と他者との境界にしか生まれえないとの結論づけ」というのも少しまずそうです。 筆者にとっては、「境界」は自己と他者を隔てるものというより「円の中心」という特権的なものなのですから。

選択肢2では、「集団の場合を対象として考察している」がまずいです。個体の場合も言及していますし、個体と集団の間の衝突が問題になっているのでした。その点でも「個の集団に対する関係がその複雑さを増大させている」というのもどんぴしゃりな指摘とはいいにくいと思います。 また、後半の、「個々の個体だけでなく集団全体においてもともに他者との境界を生き、それを自己が意識している」というのも筆者の主張とはズレています。やはり「自己意識」は「特権性を認識すること」にあるわけです。「他者との境界を生き」というのではありません。

選択肢3では、最初に「結論」が明示されているとする内容なので明確に外れます。本文の最初には「私=境界」という結論は述べられていません。

選択肢4では、「個体と集団それぞれの場合を対象として考察」は○。「他の生物に比して人間は、自己意識の存在が集団と個体との関係を難しくしている」も○。「人間の自己意識は境界を意識するところに生まれ、そこに生命の営みがある」も○。これが正答です。

選択肢5では、「まず(中略)その境界には何があるのかという問題を提示している」という内容が間違っています。問題の提示は冒頭にはありません。中段の「その問題を一般化するために自己意識の存在に着目する」というのも不適切です。一般化ではなく、「人間」という特別な存在について議論を進めているのですから。
というわけで正答は選択肢4となります。

あとがきという名の主観的意見の表明

全体的に見たとき、率直に言って次のように言ってよいと思います。本文は意味不明。しかし問題は易しい。なぜかといえば、本文の記述をなぞっているものを選べば正答だからです。 本文で筆者木村氏が言おうとしていることは、ほんとのところどういうことなんだろうとか考える必要がほとんどなく、というよりそういうことが難しい以上なおさら、本文の記述にそったものを選べばよく、 本文の内容に何か追加されてしまっているような選択肢は外せばよいのです。だから問題の難易度は「易」と付けるしかないです。

ここまでの解説でも、こみ上げる想いを押さえきれずに皮肉ってしまいましたが、あえてはっきり言えば、
「円の中心=境界」って何を言ってるんだあんた?
ってことですよ。「『私』自身ですら、これを意識したとらんに中心から外で押し出される」とか、「中心それ自身を『内部』と見るなら、中心は『内』と『外』の境界それ自身だということになる」とか意味不明もいいところですよ。 おまけに最後で筆者はひどい宙返りをしてみせています。筆者がここまでいってきたことは、「生命の営みとは境界の形を取るのではないか」ということでした。いわば、「生命の営み⇒境界」です。 しかし最後で、
「逆に言って、われわれの周りの世界にあるすべての境界には─空間的な境界も時間的な境界も含めて─そのに常に定かならぬ生命の気配が感じられるといっていい。この気配こそ、境界というものを合理的に説明し尽くせない不思議な場所にしているものなのだろう。境界とはまだ形をとらない生命の─ニーチェの言葉を借りれば「力への意思」の─住みかなのではないか。」
とか言ってしまうのです。「逆は真ならず」とはこのことであって、見るもの全ての境界に生命を感じているなんてちょっと理解できません。
結局この本文では、「境界」ということばがかなり多義的に用いられすぎていて意味が明瞭ではないし、筆者の言う「特異点としての自己」=「円の中心」まではよくても、それを「境界としての自己」と読み替える理屈がわかりません。少なくとも私には。

蛇足的に言うと、「境界としての自己」という場合には、僕の感じでは次のような意味で理解するのが普通なんじゃないかと思います。 私という自己は、他者との関係性の中で自己意識を持つわけですから、当然それは他者とは区別された何かであるはずです。しかし、実はよく考えてみると、私という自己は、 例えば「いまこう感じている/考えている/行動している私」を外から眺めることができる存在でもあります。 いま私は定理を証明した。その次の瞬間、それが本当に正しいかを検証している私がいることに気が付くはずです。 私という自己は「私」をいわば外側から眺めることができる存在でもあるわけです。他者とは別のものとして隔てられているにもかかわらず、それを外側からも眺められる位置に「私という自己」がいる。 これはまさに「私という自己」は「境界」にこそ宿っているということではありますまいか。

数学は美しいか?

ニコニコ動画に、『田原総一朗×原口一博 公開討論会〜日本の教育を考える』という動画がある。去年の12月に行われた対談である。
そのなかで次のようなやりとりがある。

原口:例えばシンガポールですね。この間リー・クアンユー上級相とお話をして、あの方も僕ら20代のころから教えて頂いているんですが、「あのー先生、何一番やっていますか?」っていうと、「世界の真善美・大きな志っていうのをこども、っていうかシンガポールの人たちに、触れてもらいたいい。」

田原:真善美?

原口:真善美、大きな志。だから、シンガポールにいながら、世界最高の教育を受けることができるわけです。それってやっぱり大きいですよ。

田原:日本の教育ってそんなことぜんぜんやってない。

原口:いやそれをやろうとしているんです。

田原:だって、高校のね、中学の教育は高校にいかに入るか。

原口:いやそうなんです。

田原:高校の教育はいかに大学に入るか。

原口:ええ。

田原:だから真善美なんて関係ないじゃん。

原口:今を犠牲にして未来を担保にしていますよね。そうではなくて、例えば、数学だったら、僕も、自分のこというのあれだけど、算数がもう大っ嫌いで数字を見ると蕁麻疹出る人間だったんですけど・・・

田原:それで東大入れるの?

原口:東大入ったってのはその後で・・・。僕の先生がフィールド賞の候補の人だったんですが、その方が高校のテストのときの試験の、一年でしたけど、上に中原中也さんの詩を添えてくれた。

田原:詩を?

原口:詩を。そうすると、あるときはっと見ると、詩のリズムと数学の美しさって良く似ているんですよ。

田原:ちょっとわかんない。

原口:いやぁ、ちょっと文学的な表現なんだけど・・・

田原:いや全然いいですよ、いまのところ説明してください。大事だと思う。

原口:中原中也さんのあの独特の詩のリズムと数学の美しさっていうの相似形してるんです。だからもう、フィールド賞の天才みたいな人だから、そのわかる人にはわかる、その芸術をそこに添えているわけです。で、今まではもうさっき田原さんおっしゃったように、答だすだけの数学が、美しいものに見えた瞬間に勝ちだったんです。あのまま中也さんの詩がなければ、もう・・・テストみただけでこの辺に蕁麻疹出るというまんまだったと思います。

田原:あのね。この本にも書いたんですが、河合塾っていう塾がありますね、大きな。

原口:卒業生です。

田原:あ、河合塾なの?

原口:笑。

田原:でね、河合塾の幹部の人が言ってました。つまり河合塾で、教える、数学を。答えを解くんじゃないと、数学がいかに面白いか

原口:そうです。

田原:数学というものが。で、自分の体験を交えて、いかにそれが面白いかということをみんなに感じてもらう。そこだって言うんですね。

原口:そうです。面白くて、美しいんです。

田原:美しい。

原口:河合塾、僕、臥薪寮にはいってて、臥薪嘗胆啓発寮。ほんとにつらい思いをしました。あ、河合塾が悪いんじゃないですよ、浪人がつらかった。

田原:ふーん。そこね。いま美とおっしゃった。美っていうことばなかなかむずかしいんだけど、やっぱ美ってのは感動する?

原口:そう感動なんですよ。

田原:うん。だから、数学やって感動するなんて普通ないのよね。

原口:いやーほんとにね。あの感動を知らずにね、死んでたら、死んでも死にきれないと思いますよね。ほんとに綺麗なんですよ、数学って。

いくつか知りたいことがあるので、ご存知の方は教えてください。

  • 原口さんの先生だったという「フィールド賞の候補」って誰ですか?っていうか、誰の可能性がそもそもあるんだろう?

そもそも、「フィールド賞」って「フィールズ賞」のことでいいんですよねぇ。苦笑。いちおう、John Charles Fieldsの名前なんですが。このミスは、映画「ビューティフルマインド」でもありました。
ちなみに、原口さんの出身高校は、佐賀県立佐賀西高等学校です。東大は文学部心理学科らしいです。

  • 中原中也さんのあの独特の詩のリズムと数学の美しさっていうの相似形してる」ってことの意味がわからないんですが、どうすれば僕にも同じ感動が味わえるのでしょうか。

中原中也の詩を読んだことはないけど、どれを読んで、数学のどの単元を勉強すれば感動できるの?知りたい。すごく知りたいです。

  • 数学って美しいですか?

僕は、美とか感動といったすぐれて身体的な情動を共有することを強制することこそ、悪しき全体主義の典型だと思います。 「数学って美しいんです」っていうのはかっこいいけど、その感動を共有しろと言われると、興ざめです。
っていうか・・・・
そもそも、数学の面白さや美しさは、数字を見ただけで蕁麻疹がでるような劣等生が、中原中也の詩を見ただけで理解できるような、 そんなうすっぺらなもんじゃないと思うんですけど。

京大入試問題流出事件の酷い反応を考える。

京大入試問題流出事件は、19歳の浪人生が逮捕されるという結末を迎えた。
この結末それ自体は、いくつかの予想されたシナリオの中でもかなり悲劇的とさえ言えるものだったが、
そのことに直接言及することは避けたい。
ここで考えてみたいのは、今回の流出事件に関してなされたいくつかのコメントや反応である。
ここで扱う反応は、大きくわけて次の3つの論点である。

  • 入試問題や入試制度それ自体に問題があるとする議論。例えば、Yahoo知恵袋で短時間に回答が寄せられるような問題それ自体が悪いとする言説。
  • ネット上の集合知の優位性、ひいてはその優位な知を活用することをむしろ肯定的に捉える言説。
  • 今回の流出事件において京大側のとった対応に問題があったとする言説。

私は、これらの言説に大枠では否定的である。端的に言えばつぎのようにまとめられる。

第1の論点に関して、

  • 数百名の選抜を行う入試問題で重要なことは、公平性・客観性そしていささかの効率性の3点である。面接や論文試験、答えのない問題で知的攻撃力を試すなどの問題は、聞こえは良いが、この3つの点のいずれにも欠陥があり到底同意できない。
  • また、入試問題でもうひとつ重要な点は「差がつく問題」であることだ。得点分布が偏るような出題では合格者を選別できない。知恵袋では答えが得られないような問題にすることは可能だが、それでは選抜の用をなさない問題になってしまう可能性が高い。

第2の論点に関して、

  • 三人寄れば文殊の知恵で、多くの人がリアルタイムで集まって議論することでより良い解決策が得られる、そのためのツールとしてネットが有効であることは否定しない。しかし、入学試験というのは、ある個人が今後アカデミズムの中で実力を発揮できるだけの基礎的実力を要しているかを判断するもので、それはネット上で得られた解決策を丸写しする能力ではない
  • アカデミズムの中や実社会でぶつかる問題には、答えがあるとは限らないという点には同意するが、だからといって答えがある問題は知っている人に聞けばよいという態度には同意できない。答えがある問題を自力で解く能力が十分に備わっていない人に、どうやって未解決の、あるいは答えのない問題を解くことが出来るというのか。未解決であることと答えがないということとに対する認識がゆるすぎる。

第3の論点に関して、

  • 不正を行った側と同様、不正を行われた側の監督責任を問うという姿勢には反対である。たとえ監視カメラの未設置や人員が少ないなどの点があっても、万引きされた店に非があるなどという議論には同意できない。カンニングが仮に明白な犯罪行為であるとは言えないとしても、カンニングを見逃した大学の責任を問うのは間違っている。一にも二にも非があるのはカンニングした当人である。
  • 大学側が連携して受験者リストと答案のチェックを付き合わせれば今回の事件を警察沙汰にすることなく処理できたとする議論は、結果論に過ぎない。今回はたまたま単独犯だっただけで、事件当初は、複数犯の可能性も強く疑われたし、実際に受験した者が同一人物であるかどうかさえ不明だった。また、実際に受験者や答案の突き合せをして、犯人の可能性のある者が数名に絞られたとしても、大学側が該当受験者を聴取することはかなりのリスクを伴う。実際にはカンニングをしていない受験生に疑いを掛けることになるわけだから無実だった場合には、それこそ責任問題になりかねない。
  • 合格発表前に実態が把握されることが望まれる。もし合格発表までに今回の実態が明確にならないと不合格者から試験の無効を申し立てられた場合に難しい対応を迫られかねない。受験者と答案を付き合わせて可能性のある者を絞り込み、京都に呼び出して事情を聴取するという時間的余裕はない。

京大入試問題流出の件─3/1付の読売記事が酷い。

今日、3月1日付の読売新聞が、京大入試問題流出の件について記事にしている。
社会面に載せられた記事の題名は、
「正解と誤り混在」
「全問「ベストアンサー」なら──京大、合格圏内も」
だった。
文系数学について、

京大の文系数学は、5問題で小問を含めて計7題を出題。全7問が「知恵袋」で質問され、すべてに回答が寄せられたが、うち1問は試験終了後。
回答について兵庫県西宮市内の「研伸館西宮校」は
完全正解が1問、ほぼ正解が2問、部分点を得られる答えが3問、不正解が1問になるとみる。全問ベストアンサーで答案を提出した場合、150点満点中119点程度の得点となるとみられ、例年の得点水準であれば合格圏内という。

と書いている。
僕は最初次のように錯覚した。
試験時間内に間に合わなかった回答を「提出」することなどできるはずがないので、そもそも試験時間内に回答の付かなかった第6問は点数が付かないはず。するとすでに120点分で考えることになっているはずだ。
すると120点中119点獲得したと研伸館はコメントしていることになる。部分点しかもらえないものがあるのにどうもおかしい。

つまりこの記事は、試験時間中に間に合わなかったものも含めてすべて「ベストアンサー」が答案として提出された場合について論じているわけだ。
そんな状況を議論することになんの意味があるのだろう。この記事の書き方だと、あたかも、入試の公平性が損なわれ、カンニングを行った者があたかも入試で合格するかのような印象を与える。
僕はこの記事は酷いと思う。

まず冷静に寄せられた回答を分析してみることから始めよう。
第1問(1)は平面幾何特に三角比からの出題。
寄せられた回答は次のようなものだった。
この回答に特段の問題点は見受けられない。
図は書いていないが、そのことで減点するかどうかは微妙な問題である。
この回答は試験時間中に投稿されている。



第1問(2)は確率の問題だった。
試験時間中に投稿された「ヒント」は次のものだった。
これは何のヒントにもなっていないので、
もしカンニングをした受験生がこの通りに書いていたら、
関与が疑われる。

試験時間終了後に寄せられた回答が次のもの。さらに意味不明。
「1回目に「1」を引く」が何を意味しているのかわからないし、
「9枚から2枚選ぶ」ということとの関係も不明。
この回答では何も点数が付かない。

第2問は空間図形の問題だった。
寄せられた回答は試験時間内で、次のようなものだった。

一見すると方針や答えも大筋では正しい。
しかし、中ほどにある「AB=AC,OB=OCより、図形の対称性を考慮すると、Hは線分AD上にある」は、少し筋が悪い。
この問題の解き方はいろいろあるが、図形的対称性などに着目しなくても、空間ベクトルの原則"始点をそろえて3つの一次独立なベクトルの一次結合として表す"だけで内積計算から解ける。
実は上の方針はその意味でも場当たり的でいささか冗長に見える。
「Hが線分AD上にある」
という主張は正しいが、本当に証明できるのか問い詰めてみたくなる。「だって対称だから当たり前でしょ?」という答えに落ち着きそうな感じがする。
難しい問題ならそれでも良いかもしれないが、本問は易しい問題なので、なるべく論証上の飛躍がないようにするべきだ。
証明法のひとつとしては、三垂線の定理を使う方法がある。すなわち、

OHと平面ABCが垂直であり、かつODとBCが垂直だから、HDはBCと垂直である。(これが三垂線の定理。)
Hは平面ABC上の点だから、BCの垂直二等分線であるAD上にある。

とは言え、三垂線の定理だってあまり高校的ではない。「対称性により」は便利な言葉だが、厳密な正当化には注意を要すると見るべきだ。
この回答だといくらかの減点は免れないと思われる。

第3問は、3次関数と直線の共有点の個数を調べる問題で、文字定数aを分離するのが定石だけれど、本問ではそこまでがんばらなくても普通に解ける。
寄せられた回答は試験時間内のもので、わざわざ文字定数を分離せずに解いている。

この回答は、大筋問題ない。増減表やグラフを描いて調べるべきだという意見もあるかもしれないが、
3次関数とx軸の共有点の個数を、極大値と極小値(の積)の符号で場合分けするのは定石的で、
あえてグラフまで描かなくても満点は付きそうだ。

第4問は、領域の面積を求める問題で、最終的には定積分を用いて面積を求めることが予想される。

まず、グラフを描いてみよという主旨のヒントがついた。

しかし、aicezukiは、グラフ込みの回答を要求した。
その後、グラフなしの回答が試験時間内に寄せられた。

この回答でも答えは正しく導き出されている。
但し、「求める面積は2とy=xとで囲まれる面積になるから」というだけで積分に持ち込む議論には飛躍がある。
グラフを描いているか、上に凸であることを断っておかないと、
y≧xを満たす領域が次図のようになっている可能性があるからだ。

つまりこの回答のまま書くと当然減点されることになる。問題自体が易しいので尚更である。

最後の第6問は個数の数え上げと評価の問題だった。
この問題の回答は試験時間内には間に合わなかったが、次のようなものだった。

前半のTnを求める仮定は、予備校各社のものよりも少し丁寧で、これで問題はない。
後半でSnを求める部分で、「Tnと同じ理屈」とするのは、
「丁度n桁の整数」と、「n桁以下の整数」の違いや、「0が入るか否か」などの点で違いを無視しているので、
厳密には減点される可能性があるが、本問の正答者はあまりいないことが予想されるので、その場合には大目に見てもらえる可能性もある。
最後の評価の根拠「大きい方は5倍しても1を超えないが、小さい方を6倍すると1を超える」も少し記述がゆるいが、ここも大目に見てもらえる可能性が高い。


というわけで、今回掲示板に寄せられた回答のまま提出された場合を想定てみた場合の僕の採点は
15点、0点、20点、30点、20点、30点で合計すると115点/150点。ほぼ研伸館のものと同じだ。
しかし、大問6は試験時間に間に合わなかったので、実際に可能な得点は、
15点、0点、20点、30点、20点、0点、合計で85点/150点となる。
今年の易しさからみて、試験時間内に間に合った回答をそのまま転載しても85点にしかならないと僕は見る。
数学だけなら、この人は落ちてると思う。

その意味でも読売の記事は、読者をミスリードしかねないもので酷い記事だと考える。

四角いアタマは丸くなるか? (その1)─ベルグマンの法則&アレンの法則─

東京に出張したとき、日能研の名物広告「シカクいアタマをマルくする」で次のようなものを見た。正式な画像はこちら。

問1.1辺が1の立方体の体積は1。表面積は6だから体積の6倍。1辺の長さを2倍にすると、体積は8倍で8。表面積は4倍で24だから体積の3倍。さて、1辺の長さを3倍にすると、表面積は体積の何倍になるか?
問2. 寒い北極圏から暖かい赤道までの北半球でくらす動物にとって、問1の規則は、からだの特徴を決める上でとても大切な意味を持っています。その特徴を15字以内で説明しなさい

問1は簡単で体積は27倍で27。表面積は9倍で54。従って、表面積は体積の2倍となる。(一般に1辺をn倍にすると、体積はn3倍でn3。表面積はn2倍で6n2。つまり表面積は体積の6/n倍。)
まぁ、表面積[cm^2]と体積[cm^3]を何とか倍で比較するのはちょっとおかしくて、せめて比とか言って欲しいんだけど、小学生が相手だからそこはよしとしよう。それに、これは理科の問題なのかどうか、ということもひとまず見逃そう。

さて、問題は問2。これを見たとき、僕はある知っている知識からネタがわかった。しかしどうも「北半球でくらす」という誘導がよくわからなかった。これは問題に答える上で考慮すべき条件なのだろうか。
問1で言っていることのポイント、つまり「問1の規則」とは、体積:表面積の比はn:6であるということ、定性的に言えば、体積が大きければ大きいほど、体積と表面積の比は大きくなる、即ち体積に対する表面積の割合(表面積/体積の値)は小さくなるということだ。これが動物の「からだの特徴」とどう関わるかを考える必要がある。結論はこうだ。
暖かい地域では、体内で発生した熱を逃がすためになるべく体積に対する表面積の割合を大きくとろうとし、逆に寒冷地では、熱を逃がさないために体積に対する表面積の割合を小さくしようとする。従って、暖かい地域では小型の動物が、寒冷地では大型の動物が多く見られる(であろう)。あれ、15字では到底収まらない。

というわけでたまたま乗っていた東横線の電車の中で、15字にするにはどうすればいいんだろうと首を捻っていた。
まず小学生相手なので推論の根拠は示さず、結論だけ述べればいいんだろう。「熱を逃がす/逃がさないため」という根拠は不要なのだろう。(ある意味、嘆かわしいのかも。)
あえて強引にまとめると、
寒いと大型、暖かいと小型。」(13字)
うーん。なんか酷い答だが、電車の中ではこれ以上うまい答がかけなかった。

さて、この法則性は「ベルグマンの法則」と呼ばれている。wikipediaに簡潔な説明があるので引用してみよう。

恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する。


例えば恒温動物であるということは重要で、変温動物では逆の現象もあるようだ。
また「同じ種」で比べるということも法則性を記述する上では重要なポイントだろう。ウサギとクマをくらべても仕方がないのだ。


他方、後に発表された「アレンの法則」という類似の法則もある。

恒温動物において、同じ種の個体、あるいは近縁のものでは、寒冷な地域に生息するものほど、耳、吻、首、足、尾などの突出部が短くなる。

要するにどちらの法則とも、暖かい地域では体積を小さくして表面積を大きく、寒い地域では体積を大きくして表面積を小さくしたほうがいいよってことだ。
体積を固定すると表面積が最小になるのは球の場合だから、同じ体重でも身長の大きな人より、太った人の方が保温効果があるってことですな。

ここまで見てきても「北半球でくらす」という条件は特に設問に答える上では必要ないようだ。
ベルグマン自身が北半球で調査を行ったのかもしれないし、南半球は海が多く陸地が少ないので同一種が連続的に分布しているような調査対象が選びにくかったのかもしれない。
ちょっと問題の誘導がミスリーディングだと思うのだ。

閑話休題

ではお待ちかねの日能研の解答。

体が大きいほど熱がにげにくい。(15字)

???これは、はたして「からだの特徴」なのだろうか。「からだの特徴」って言ったら、大型/小型とか突出部が長い/短いといった外見的なものを指すんじゃないだろうか。
「表面積/体積の値が大きい/小さい」→「体積が大きいほど熱が逃げにくい」→「寒冷地ほど大型、温暖地ほど小型」
という流れの最後(同一種間でも住む地域によって大型/小型の傾向があること)までいかない答でありなのかとちょっと落胆したのでありました。

さて、《出題校にインタビュー》を見ると

「これでいいだろうと○をつけたのは4割弱だった」

とのこと。果たしてどういう解答が出て、何を○にしたのかとか、そもそも学校側が用意していた模範解答が何かということが気になるわけです。
15字では、到底上の議論のすべてを盛り込むことは不可能だと思われるわけで、何かを削った模範解答だったはずです。
僕としては、
「体積が大きいほど熱が逃げにくいので、同一種間でも、寒い地域ほど大型化する。」(37字)
くらいは許容できるように「40字以内」くらいにするか、あるいは選択式にするべきなんじゃないかと思うんですが。

さらに次のようなコメントも。

ちなみにこの問題のオリジナリティなんですけれども、これは中等科第二分野の自然の単元に出てくる生物の特徴の中の一つで、いわゆるベルクマンの規則、アレンの規則と言われるものなんです。私が中学生、高校生の頃はベルクマン・アレンの法則といわれていたのですが、それほどのものではないということで今はベルクマンの規則と言われているんです。

それはなぜかというと種が異なるからで、種が異なれば遺伝子DNAの組成、プログラムは変わってきますから、正確な比較はできないわけです。全体としてこういう傾向があるんだよということであって。このことが学問的にいって事実かどうかということは?マークがつくところなのです。

ただ、発想としてはわりとストレートに、他の誤差もなく、ここへ導き出されてくることなので、この問題をどうするかを検討した結果、そのまま出題することにいたしました。図版はすべてオリジナルです。当然小学校の教科書には出てこない話ですから、その意味ではオフサイドなんですけれども。

なんだかこの先生「ベルグマンの法則」と「アレンの法則」というのをきちんと区別できているのか怪しい感じがしてきます。
それに、これらの法則は、「恒温動物」における「同一種間」での比較ですから、「種が異なれば遺伝子DNAの組成、プログラムは変わってきますから、正確な比較はできない」ということだけで「学問的にいって事実かどうかということは?マークがつくところ」と断定してしまうのはちょっと言いすぎだと思われます。ウサギとクマを比べてるんじゃないんだってば!



(余談)出題校へのインタビューでも、担当の先生が
私の少年時代は野山を駆けまわる、いわゆる「虫きち」でありまして、その虫採りを通じて自然環境の問題に対しても大変興味をもっておりました。」
とか、出題意図にも、
「文字から得られる知識だけでなく、体験を通して感じ取ったことがものごとを考えるうえで幅を広げると考えている」
といった話がでてきます。
これはいろいろ議論があることなのかもしれないけれど、体験したことを法則化する営みということが自然科学の基礎であって、法則化するという目線のない体験だけを積み重ねても自然科学は理解できないと思うわけです。
確かにベルグマン・アレンの法則って、数理的には当たり前という感じもする一方で、多様な生き物がみなそういう法則に従っているわけではなさそうにも見える。しかし、寒冷地から温暖地までを観察した体験を法則性に結び付けている、そのことに価値があると思うわけです。だからこそ、「体積が大きいほど熱が逃げにくい」という記述で終わらせてしまうことに疑問があるわけです。

ベルグマンやアレンは実際の生き物を観察して、一定の傾向を見出した。そしてその根拠が表面積/体積の値の大小に関係しているとにらんだ。こうして法則性が根拠付けられたわけで、そのどちらも押さえる出題にしなきゃ意味がない。体験することを強調しすぎるあまり、法則化しそれを根拠付けることが相対的に軽視されてしまっているんではないかと思うわけです。

例えば、wikipediaの例にあるように、マレーグマ、ツキノワグマ、ヒグマ、ホッキョクグマの体長を示して、生息地と体長の間にどうのような関係があるかを述べさせ、その理由を問1に基づいて説明させるという方がずっと丁寧だったのではないかと思うのです。

実際の入試問題を使ったはいいが・・・

10分以内の解けなければ・・・

探偵学園Q」第4話で次のようなシーンが登場する。
全寮制の学校の特進クラスという感じのネタのつもりなのだろうが、数学担当の女教師が次のように宣言する。

「これは東大の入試問題よ。10分以内にこれが解けなければ、このクラスの授業にはついてこれないわ。」

ここで取り上げられているのは実際の東京大学理系入試問題である。(2002年度第2問)

この問題は、積分方程式を題材としている。「ただひとつに定まるための条件を求めよ」という出題の仕方には少し戸惑う余地があるものの、
積分方程式を満たすf(x)の決定問題としてみれば、高校数IIIの典型的な内容であるといってよいだろう。少なくとも答は合わせたい問題である*1

この問題を解説する前に、ドラマのストーリーを追いかけてみよう。

天草リュウ登場。

ジャニーズの山田涼介演じる天草リュウが颯爽と黒板に向かう。

そしておもむろに解答を黒板に書き始めるのだ。

答案は次第に書き進められ・・・


解答を完了したリュウが、「先生、これでいいですか?」と問う。

「完璧だわ。」

なぜか少し悔しそうな女教師。

そしてリュウは颯爽と席へ戻るのであった。

ちょっと待ったぁ!!!

下の2枚の画像からわかるように

問題文が4行、そしてリュウの解答も4行である。
この問題の解答ってそんなに短い量で書ききれるものだろうか。

解答例

やはり問題の解説が必要なようである。
この積分方程式では、積分区間xに依存していないので、定積分の中でxに依存しない項をくくりだして定数とおくのが定石である。以下、その方針で解答例を提示しよう。

まず、積分の中身にある題意の積分方程式中にある\sin(x+y)\cos(x-y)を加法定理で分解してxに関する項を積分の外に取り出し、xに依存しない定積分
A=\int_0^{2\pi}\cos{y}f(y)dy・・・ア    B=\int_0^{2\pi}\sin{y}f(y)dy・・・イ
とおく。このとき
f(x)=\left(1+\frac{aA}{2\pi}+\frac{bB}{2\pi}\right)\sin{x}+\left(1+\frac{aB}{2\pi}+\frac{bA}{2\pi}\right)\cos{x}・・・ウ
と表せる。
次に、これをア、イ式に代入し、3つの定積分
\int_0^{2\pi}\cos^2{y}dy=\int_0^{2\pi}\sin^2{y}dy=\pi,   \int_0^{2\pi}\sin{y}\cos{y}dy=0
を用いると、2つの等式
A=\pi+\frac{aB}{2}+\frac{bA}{2},   B=\pi+\frac{aA}{2}+\frac{bB}{2}
が得られる。これをA,Bについて整理すると
\left(1-\frac{b}{2}\right)A-\frac{a}{2}B=\pi,    -\frac{a}{2}A+\left(1-\frac{b}{2}\right)B=\pi
というA,Bについての連立一次方程式が得られる。
2式を足すと
\left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right)(A+B)=2\pi・・・エ
であり,2式を引くと
\left(1-\frac{b}{2}+\frac{a}{2}\right)(A-B)=0・・・オ
である.そこで,3つの場合に分けて考える。
Case.1 \left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right)=0の場合。エからA,Bは存在せず不適。
Case.2 \left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right) \neq 0かつ\left(1-\frac{b}{2}+\frac{a}{2}\right)=0の場合。オは任意のA,Bについて成り立つことに注意すると,エからA+B=\frac{2\pi}{\left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right)}をみたすすべてのA,Bが解になる。従って、解は無数に存在し不適.
Case.3 \left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right) \neq 0かつ\left(1-\frac{b}{2}+\frac{a}{2}\right) \neq 0の場合.オからA=B、エからA+B=\frac{2\pi}{\left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right)}であるから、
A=B=\frac{\pi}{\left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right)}
となってただひとつ存在する。
このとき,ウに代入すると
f(x)=\frac{-2}{a+b-2}(\sin{x}+\cos{x})
であり、これは0x2\piで連続になっており条件に適する。
よって求めるa,bの条件は
\left(1-\frac{b}{2}-\frac{a}{2}\right) \neq 0かつ\left(1-\frac{b}{2}+\frac{a}{2}\right) \neq 0 \Leftrightarrow \left(1-\frac{b}{2}\right)^2-\left(\frac{a}{2}\right)^2 \neq 0
である。

なんだかずいぶん長くかかってしまった。この解答が4行にまとめられるのだろうか。

リュウの答案の検討

これからわかるように、
f(x)=\left(1+\frac{aA}{2\pi}+\frac{bB}{2\pi}\right)\sin{x}+\left(1+\frac{aB}{2\pi}+\frac{bA}{2\pi}\right)\cos{x}
に相当する式は、彼の答案の3行目に書かれていることがわかる。

そして次の行で答えが出るのだ。

それはありえない!!!

この問題では、ウ式をもとのア、イの式に代入して定積分を計算し、A,Bによる連立一次方程式を導くことが必要不可欠である。
しかし彼の答案には、この肝心な部分が完全に欠落している。
冴え渡る彼は、この部分の計算を暗算でやってのけたのだろうか。
しかしそれはありえない。前半3行はせいぜい加法定理を使うだけの計算であり、ここに3行も費やさなければならない人が、定積分の計算や連立一次方程式の導出を暗算でできるとは普通考えない。
しかも答案の中では、少なくとも連立一次方程式は明示しなければならないのであり、答案としては完全にまずい。

この答案ははっきり言っておかしい。

しかも、事態はそれだけではない。

この2枚の画像には「6」と「9」というなぞの数字が登場する。この問題の解答にこのような具体的な数字が登場する余地はない。
事態は明白である。天草リュウは、「b」と書くべきところを「6」と書き間違え、「a」と書くべきところを「9」と書き間違えているのである。

事態ははっきりした。
天草リュウはこの問題をその場で解いているのではない!
彼は以前にこの問題と解答をどこかで見て、それを丸写ししているのだ!

さらに、事態はそれだけではない。

彼の答案にはaetというなぞの文字が登場する。この問題の解答にe,tなどという文字が登場する余地はない。

事態は明白である。
天草リュウは、「\det」と書くべきところを「aet」と書き間違えているのだ。

これは、なんと2 \times 2行列だったのだ。

事態はよりいっそうはっきりした。

天草リュウは数学的内容を何も理解していない!

天草リュウの天才性は虚飾だ。

連立一次方程式の理論について

最後に登場した行列式は、連立一次方程式がただひとつの解を持つための必要十分条件を与えるものである。

A,Bについての連立一次方程式
\left(1-\frac{b}{2}\right)A-\frac{a}{2}B=\pi,    -\frac{a}{2}A+\left(1-\frac{b}{2}\right)B=\pi
が唯一つの解を持つための必要十分条件は,A,Bの係数を取り出して出来る2\times 2行列
\left(\begin{array}{cc}\left(1-\frac{b}{2}\right) & -\frac{a}{2} \\ -\frac{a}{2} & \left(1-\frac{b}{2}\right)\end{array}\right)
行列式が零ではないことである.

これは数学的は正しいが、高校生が何の証明もなく利用してよいかどうかは議論の余地がある*2

入試の現場では、制限時間もあるので、この部分の根拠記述は後回しにして正しい条件式だけを導いておくということが必要な可能性もある。他に解ける問題がたくさんあるなら、そちらにも時間を振り分けなければならないからだ。多くの問題集で、この部分は場合分けなしに、例えば「連立一次方程式の理論より」などという具合にさらりと流されている。

しかし、高校の教室では違う。
なんの断りもなく、上のような事実を使う場合、まず内容を理解しているかどうか、証明ができるかどうかを順次問いただしていくべきだ。
天草リュウの答案を素材にして言うと、
4行目の冒頭で「よって・・・」と書き出した段階で、まず「連立一次方程式の解の一意性」を行列式の言葉で必要十分に言い換えているという意識を持っているかどうかを問うべきである。
次に、「先生、これでいいですか」と言われたときに、使った事実の証明ができるかどうかを問うべきなのだ。

\det」と書くべきところを「aet」と書き間違えているような学生は、どこかで見聞きしただけの知識を、理解しないまま遣っている可能性が極めて高い、と考えるのが当然である。

率直に言って、

この女教師は全くの無能だ!

彼女は、天草リュウの議論に致命的な欠陥があることに気が付かず、多くの書き間違えを見逃し、行列式についての理解を問うことさえもしない。そして「完璧だわ」などとお墨付きを与えてしまうのである。彼女の数学的能力は到底信用ならないし、ましてや「この問題が10分以内に解けなければ」ついてこれない授業などできるはずもない*3

また同時に、天草リュウの答案を見て圧倒されてしまっているこのクラスの高校生たちが、「この問題が10分以内で解ける」生徒ではないということは明白であり、そもそもこの問題を解くことさえもおぼつかない生徒である可能性が高い。

茶番劇、ここに極まれり。

覚えさせるんじゃなく・・・

おそらく、キャストの山田涼介は、この問題の解答をカンペとして覚えさせられたのだろう。それを黒板の前で復元しようとして、失敗しているのだろう。
しかし、そもそもこのスペースの中に示せるだけの短い解答例ってほんとにあるんだろうかという気もする。そもそもの初めから、渡されたカンペがひどいものだった可能性もある。
別に一息で書かせる必要もないんだから、ちゃんとした正しい解答例を書けばいいじゃないかと思うのだ。
たぶんこんなワンシーンにそんな手間はかけてられなかったのだろうけれど、見る人が見れば、あきらかにおかしな解答例を掲げてしまうというのは、恥ずかしいだろう、やっぱり。

*1:但し、あとで触れるように、最後の「ただひとつ」に関する論証をどう書くかは悩ましい。

*2:上の解答例では場合をわけで議論した。もちろんこのように議論している問題集や解答集もある。

*3:しかもこの教師の問題文の書き方もよくない。黒板の問題の右の余白が大きいのだから+以降の項も右に書くべきだ。