いまさら鳩山論文について

鳩山由紀夫首相がVoice誌に寄稿した「私の政治哲学」と題する論文が、ニュヨークタイムス紙に転載され多くの反響を生んだ。
私はこの件に関して、どのような経緯で掲載が決まったかとか、誰が英訳を作成したか、といったことについては何も関知していない。
しかも私は英語が苦手だ。

以下では、鳩山自身がVoice誌に掲載した文章を「日本版」、鳩山のウェブにある全文の英訳版を「英文版」と呼び、ニュヨークタイムス紙電子版に掲載された英文を「NY版」と呼称することにする。
NY版の冒頭数段落と、日本版・英文版の対応箇所を少しだけ検討してみたい。

結論的に言うと、鳩山論文は長文だが、全体としてある種の理想論に終始するきらいがあり、その点でとてもナイーブな代物だということである。
しかし、NY版はその論文の特定の部分を切り出して抄訳しているため、そのナイーブな議論がある種の過激さを持って読者に訴えかけてくることになる。
誰がしたにせよ、この抄訳はいささか原文とは異なった印象を与えるもののように思われる。

第1段落

NY版第1段落は次のように始まる。

In the post-Cold War period, Japan has been continually buffeted by the winds of market fundamentalism in a U.S.-led movement that is more usually called globalization. In the fundamentalist pursuit of capitalism people are treated not as an end but as a means. Consequently, human dignity is lost.

「資本主義の原理的追求のもとで、人々は目的ではなく手段として扱われ、その結果として人間の尊厳が失われてしまう。」というこの過激な一文が、おそらく今回の問題がおきる大きな一因であることは間違いないと思う。

しかし、まず指摘しておかなければならないことは、この一文が日本版の第一文ではないということだ。日本版では、グーテンホフ・カレルギー伯爵の「全体国家主義対人間」における主張を紹介しながら、友愛の概念について説明している。特に重要な次の部分を引用しておこう。

 カレルギーは昭和十年(一九三五年)『Totalitarian State Against Man (全体主義国家対人間)』と題する著書を出版した。それはソ連共産主義ナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省に満ちている。
 カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保障するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた。
 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」
 ひたすら平等を追う全体主義も、放縦に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段と化してしまう。人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。
  「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」
 彼の『全体主義国家対人間』は、こういう書き出しで始まる。
 カレルギーがこの書物を構想しているころ、二つの全体主義がヨーロッパを席捲し、祖国オーストリアヒットラーによる併合の危機に晒されていた。彼はヨーロッパ中を駆け巡って、汎ヨーロッパを説き、反ヒットラー、反スターリンを鼓吹した。しかし、その奮闘もむなしくオーストリアナチスのものとなり、彼は、やがて失意のうちにアメリカに亡命することとなる。映画『カサブランカ』は、カレルギーの逃避行をモデルにしたものだという。
 カレルギーが「友愛革命」を説くとき、それは彼が同時代において直面した、左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だったのである。

この部分を受けてこその「human dignity has been lost」なのである。この文脈を理解しないと、いきなり反資本主義的な過激発言をしているように誤解されてしまう。

そして次に指摘しなければならないのは、日本版の対応箇所との相違である。
日本版の対応箇所は次のように言う。

この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの「自由」、その「自由の経済的形式」である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことに改めて気が付いた。

英文版では

post-cold war Japan has been continually buffeted by the winds of market fundamentalism in a US-led movement which is more usually called globalization. Freedom is supposed to be the highest of all values but in the fundamentalist pursuit of capitalism, which can be described as ‘freedom formalized in economic terms’, has resulted in people being treated not as an end but as a means. Consequently human dignity has been lost. The recent financial crisis and its aftermath have once again forced us to take note of this reality.

となっている。

この文章をみてわかるのは、「自由」というものに対する文脈がNY版で完全に削られているということである。
日本版での議論は、カレルギーの議論を引用しつつ「至上の価値であるはずの自由」、あるいはそれを体現した経済形式であるところの資本主義が原理的に追求されると、人々は目的ではなく手段と化す*1といっている。これは、あからさまな反資本主義であるというよりは、自由に内在する問題点を述べている文脈だと解するべきなのではなかろうか。

もうひとつ付け加えると、
Freedom is supposed to be the highest of all values but in the fundamentalist pursuit of capitalism, which can be described as ‘freedom formalized in economic terms’, has resulted in people being treated not as an end but as a means.
という一文は、私には意味がわかりにくい。
この文章の主語は、おそらくFreedomなのだろう。Freedom has resulted in people なのだろう。
being treated not as an end but as a meansもわかりにくい気がする。
こうなると文章を例えば2つに分けて、後半の主語をpeopleにしたくなる。
people are treated not as an end but as a means.
とNY版のようにである。これで文意はかなりはっきりしたかのように見える。しかし、人々を目的ではなく手段として扱うのは何かという問題は残る。
日本版では、Freedomが人々を目的ではなく手段として扱うのだ。
自由という考え方が原理的に追求されたとき、その考え方そのものが人々を目的としてではなく手段として扱ってしまうことになるといっているように見えるのである。
だからこそ、日本版・英文版はいずれも、Freedomの性質を述べている文章だと解すべきだと思うのである。
いきなり「資本主義の原理的な追求の中で、人々が目的ではなく手段として扱われる」と書くと、これはもはや完全な反資本主義である。
しかし「自由」という考え方が原理的に追求されるとき、「人々を、目的ではなく手段として扱う」と書けば、これは行過ぎた「自由」に対する警句であろう。
「「自由」という概念を体現した経済的形式が資本主義である以上、資本主義が行き過ぎれば、人間の尊厳は失われてしまう」というのは、完全な反資本主義というよりは、
自由というものの持つ危険性を念頭に置いた、資本主義の行き過ぎに対する危機感の表明なのだろう。

これは現実主義的な感想というよりは、やはり理念的な感想に思えてならない。

そして最後にもうひとつ。
この文章は、すぐれて国内向けのものとして書かれているという印象を受ける。
日本では、格差社会下流社会といった言葉が一世を風靡したように、行過ぎた資本主義、市場原理主義的なものへの危機感や違和感というものを一定程度許容しているという現実がある。
自由という考え方の原理的追求が、必ずしも人々を人間的に扱うとは限らないことに、一定の共通理解がある。
しかし、果たしてアメリカでもそうであるかどうかはやや心許ない。
そして同時に、不用意に「反資本主義的」発言をすることが、アメリカの人々の心情を刺激することは明白であり、もし掲載されるなら、慎重な言い回しが必要だと、誰でも気が付くのではなかろうか。
この意味から言って、やや理想論的な観点から「自由」の行き過ぎに対する警句を発することと、現在の金融危機や資本主義、グローバリズムを結びつける部分に、議論の甘さがあるように思えるのである。
NY版の編集はかなりひどいと思うが、必ずしも相手方だけの責任とも言い切れない面もある。

第2,3段落

NY版の第2,3段落は次のような文章からなる。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism, that are void of morals or moderation, in order to protect the finances and livelihoods of our citizens? That is the issue we are now facing.

In these times, we must return to the idea of fraternity as in the French slogan “liberte, egalite, fraternite” as a force for moderating the danger inherent within freedom.

対応箇所の日本版は以下の通りであり、

道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それが今われわれに突きつけられている課題である。
 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして、「友愛」を位置づけたことをあらためて想起し、再び「友愛の旗印」を掲げて立とうと決意した。

英文版は以下の通りである。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism that are void of morals or moderation in order to protect the finances and livelihoods of our citizens? That is the issue we are now facing. In these times, I realized that we must once again remember the role for fraternity identified by Coudenhove-Kalergi as a force for the moderating the danger inherent within freedom. I came to a decision that we must once again raise the banner of fraternity.

やはり、鳩山論文の主旨は「自由に内在する危険性の抑止」のための「友愛」なのである。NY版を第1段落から読んでいくと、ここで唐突にfreedomが登場する。きわめて唐突に感じられる。

How can we put an end to unrestrained market fundamentalism and financial capitalism, that are void of morals or moderation, in order to protect the finances and livelihoods of our citizens?

は、もはや完全なる反資本主義の高らかな宣言であるとも取れる。しかし、「道義と節度を失った資本主義」というのは、「行き過ぎた自由」のひとつの体現である。危険性を持ってはいてもなお「自由は至上の価値」なのである。このことは日本版・英文版では宣言されているが、NY版では削られている。NY版はとにかく完全なる反資本主義の立場であるという読解から編集している。

第4段落

この直前、日本文・英文では

私にとって「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である。そして、われわれが目指す「自立と共生の時代」を支える時代精神たるべきものと信じている。

What does fraternity mean to me? It is the compass that determines our political direction, a yardstick for deciding our policies. I believe it is also the spirit that supports our attempts to achieve ‘an era of independence and coexistence’.

と述べているが、NY版では削られている。率直に言って、鳩山の言う「自立と共生の時代」「友愛革命」という理念は、やはりやや具体性に欠ける部分があり、いきなりそんな宣言をぶつけても仕方ないと思われたのかもしれない。NY晩は上の部分を削って、次のように続けている。

Fraternity as I mean it can be described as a principle that aims to adjust to the excesses of the current globalized brand of capitalism and accommodate the local economic practices that have been fostered through our traditions.

「自由」という文脈をずたずたにされてしまうと、この文章は、伝統的価値への回帰と反グローバリズム宣言に読めてしまう。
そしてもうひとつ、対応する日本文・英文の箇所

 現時点においては、「友愛」は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われてきた国民経済との調整を目指す理念と言えよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。

In our present times, fraternity can be described as a principle that aims to adjust to the excesses of the current globalized brand of capitalism and make adjustments to accommodate the local economic practices that have been fostered through our traditions. In other words, it is a means of building an economic society based on coexistence by switching away from the policies of market fundamentalism and towards policies that protect the livelihoods and safety of the people.

を読むと、NY版は「共生」というkey wordも完全に削り取っていることがわかる。
確かに、鳩山論文の中から「反資本主義」「反グローバリズム」といった主張だけを取り出すことは可能だが、実際には、「自由の行き過ぎに対する警句」と「共生社会の建設」という2つの観点も含まれている。
私には、NY版の抄訳があえてそうした観点を削り取り、「反資本主義」「反グローバリズム」といった主張だけを際立たせているように思われてならないのである。

そして今回のメインディッシュである第5段落がやってくる。

第5段落

NY版は次のように続ける。

The recent economic crisis resulted from a way of thinking based on the idea that American-style free-market economics represents a universal and ideal economic order, and that all countries should modify the traditions and regulations governing their economies in line with global (or rather American) standards.

私なりに訳すと
「今回の金融危機は、
アメリカ式の自由経済こそが普遍的でしかも理想的な経済秩序であり、すべての国は、その国の経済政策上の伝統や規制をグローバルスタンダードへ修正していくべきである
とする考え方に起因している。」
となるだろうか。
The recent economic crisis resulted from a way of thinking....
に注目してほしい。「今回の経済危機は、...という考え方によって引き起こされた」のである。これはきわめて過激な主張である。
アメリカ式自由経済を世界へ広めようとするアメリカンスタンダードの考え方を原因として、今回の経済危機という結果が生じたと主張しているのである。

日本版はこうだ。

言うまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終焉後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、グローバルエコノミーとかグローバリゼーションとかグローバリズムとか呼ばれた。
 米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(実はアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。

英文版はこうである。

It goes without saying that the recent worldwide economic crisis was brought about by the collapse of market fundamentalism and financial capitalism that the United States has advocated since the end of the Cold War. This US-led market fundamentalism and financial capitalism went by many names including the "global economy", "globalization" and "globalism". This way of thinking was based on the principle that American-style free-market economics represents a universal and ideal economic order and that all countries should modify the traditions and regulations governing their own economy in order to reform the structure of their economic society in line with global standards (or rather American standards).

ここで言っているのは、今回の経済危機の原因が、「市場原理主義や金融資本主義の破綻」にあるということである。これはNY版と意味が全く異なる。

「Aという考え方によってBが生じた。」

は、結果Bの原因にAという考え方があるという主張である。しかし、

「Aという考え方の破綻によってBが生じた」

は、なぜAが破綻したのかという原因については触れずに、Bの原因は「Aの破綻」だといっているだけである。AがBを招来するのではない。Aが破綻するとBが生じるのである。繰り返すが、後者はAという考え方の正邪については何も述べていない。しかし危機がnegativeな状況だとすれば、「Aという考え方によってBが生じた。」は、Aという考え方自体がBというnegativeな要素を招来する何かを内在していることを主張しており、Aという考え方が邪であることも含意している。後者はAが破綻しなければ、Bというnegativeな状況は起きないかもしれないわけで、破綻しないようにAという考え方を運用できれば問題ないかもしれない。Aという考え方自体に反旗を翻しているのではない。ここに至って、NY版は日本版の意図を完全に失している。

確かに、鳩山論文は、反資本主義や反グローバリズムを宣言していると読めなくもない箇所が多々あるが、それは、自由の行き過ぎに対する警戒感と共生社会の構築というテーマと並ぶひとつのテーマに過ぎない。にもかかわらず、NY版は、反資本主義や反グローバリズムと読める部分だけをかなり意図的に抽出した(orその部分だけに目が行き過ぎた)ために、経済危機を招いた理由がグローバリズムそれ自体にあるという「反グローバリズム」的主張をしているに違いないと誤読してしまったのではなかろうか。

もう少し混ぜっ返してみる。
例えば、次のような書きぶりも可能だ。

「Bというnegativeな状況が今起きている。これは、Aという考え方が破綻していることを意味している。」

集合論的に言えば、

  • 「Aという考え方によってBが生じた。」は「A⊂B」。

 Bが起きた原因はたくさんあるかもしれないが、Aという考え方にはBを生む内在的な理由がある。

  • 「Aという考え方の破綻によってBが生じた」は「Aの破綻⊂B」。

 Bを生じる原因はたくさんあるかもしれないが、Aが破綻すれば(必ず)Bになる。

  • 「Bというnegativeな状況が今起きている。これは、Aという考え方が破綻していることを意味している。」は「Aの破綻⊃B」。

 Aが破綻したらいろいろなことが起こるだろうが、Bは(必ず)起きる。

私は、鳩山の主旨がどういうことなのか本当のところはよくわからない。
世界経済危機が、なぜグローバリズムの破綻によってもたらされるのか、その根拠は不明である。
穏当なところでいくと、今回の世界経済危機を見ると、やっぱりグローバリズム一辺倒ってのはまずいんじゃないの?的な感想になってもよいような気もする。
それは、どちらかというと三番目に近いのかもしれない。

私は、今度の国会で、野党自民党の議員がNY版を片手に、鳩山首相が今回の経済危機の原因とグローバリズムの関係をどう捉えているのか詰問する場があっていいと思うのだ。

*1:例えば、サブプライムローンの問題では、ローン購入者は、家を買うというその人の幸福のためというよりも、金融産業がバブリーな肥大化を遂げるための道具だとみなされたのではないか。その意味で、現在の金融資本主義は、道義と節度を失っているのではないか、といっては言い過ぎなのであろうか。“human dignity has been lost”は読み手にはかなり衝撃的で、アメリカの否定的な反応はこの一文に大きな原因があるように思われる。しかし、国内的には、金融資本主義の行過ぎた例のひとつがサブプライムローン問題なのだというある程度の共通理解はあるのではなかろうか。アメリカでの受け止め方を知りたいところではある。

1+1は2じゃないの?

エジソンの母」に出てくる小憎たらしい小学生

以前に放映していたドラマに「エジソンの母」という作品がある。
私は第1話しか見ていないけれど、その中に1+1=2という足し算について「どうして?どうして?」とたずねる少年の話が登場する。

「どうして1+1は2なの?」
と尋ねる小憎たらしい小学生けんとくんに担任の先生が答える。

「ここにみかんが1個あります。そしてここにもう1個みかんがあります。1個のみかんと1個のみかんを足すと2個になります。
1+1=2。1足す1は2になります。わかりましたか?」

と応える。もちろんこれで納得してくれれば話は簡単だ。しかし、けんとくんは続ける。
「どうして?」
つかつかと教壇に歩み寄った彼は、徐に片方のみかんを半分にする。

「だって僕はいつもおかあさんとみかんをこうして食べているよ?こうやると、1足す1は3だよ?」

まだ続く。

「それにみかんの中にも1,2,3,4,5,6,7,8、8房あるから、1足す1は10よりもっと多いよ?」

まだまだ続く。彼はみかんの1房を突き出してこう言う。

「それに1個の中にもつぶつぶがいっぱいあるから、1足す1はもっともっとすっごくおおいよ?」

「あのね花房くん・・・・」
と戸惑いながら話しかける教師をさえぎり、彼は「どうして1足す1は2なの?」と繰り返し尋ねる。

まったく小憎たらしいのである。
だが、問題なのは女教師(伊東美咲)の態度である。
彼女はけんとくんを説得することをあきらめ自分の境遇を嘆くのだ。

このあと、同じ説明を
「青いチョーク1本と赤いチョーク1本」で説明する別の教師(松下由紀)が現れるが、もうここまでにしておこう。

その晩、伊東演じる女教師は2個のトマトを手に持ち、「1足す1は2。そんなこと当たり前として言いようがないじゃない!」と愚痴る。

翌日、こんどは生活の授業で、

「けんとくんはうそつきだ。」
「あなたの言う通りです。」

というよく知られた応酬がある。
伊東演じる教師もこの命題の主張に混乱しまくっている。

准教授登場。

ここまでなら単なる「能力のない教師」と「モンスター小学生」の掛け合いに過ぎないのだが、
事態はさらにエスカレートする。

伊東演じる教師を結婚直前で振った大学准教授がいる。
彼は、けんとくんの発言に興味を示し、
ソクラテスプラトンパラドックスだと興奮したあげく、
「その子は天才かもしれないぞ!」
などと大げさなことを言っている。
彼はさらに続ける。
「1足す1は2だとしか考えられない君が面白くない。1足す1は2。でも2じゃない場合だってある。」
そこでゼミか授業かの受講生が3人部屋に入ってくる。
准教授が言う。学生を指差して。

「ちょうどいい。1足す1は何かを述べよ。」

寒い。何だこの寒い展開は・・・・。凍えそうなのを我慢して学生たちの答えを聞いてみると・・・

2進法では当然1足す1は10(じゅう)ですね。
コンピュータ世界の定義も1足す1は10(じゅう)です。
2の剰余系では1足す1は0。
ブール代数であれば1足す1は1になります。
文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。
論理演算でも1足す1は1。電子回路なんかで使うのがそうです。具体的には、複数の入力のうちどれかひとつでも1であれば、出力も1になる場合が論理和です。

この中にはいくつか正しい記述もあるが、いくつかの間違った主張も含まれている。それは、けんとくんが犯しているのと同種の間違いだといってもよい。

だが、准教授は得意気に言う。

その通り。いいかい?学生が考えただけでもこれだけの可能性がある。
多くの人間にとっては1+1=2が感覚的に一番しっくり来るだろう。
だがこれは1つのルールであって、実際にはもっとたくさんの可能性がある。
というか、可能性というのは好奇心があるだけでうまれていくものなんだ。
それを1足す1は2としか言えない君。
2以外の可能性をすべて消して子供の純粋な好奇心を無視することしかできない君は、やはりとても面白くない人間だ。

まぁドラマは続くが、このへんで引用はおしまいにしよう。

何が問題か。(その1)

もちろんこの准教授は冒頭のやりとりを正確に聞いたわけではないので、上に引用したようなやりとりを使って、伊東演じる女教師をからかったのかもしれない。
だが、ここまでの話を数学的に見るならば、やはり教師としては、まず冒頭のやり取り

「だって僕はいつもおかあさんとみかんをこうして食べているよ?こうやると、1足す1は3だよ?」
「それにみかんの中にも1,2,3,4,5,6,7,8、8房あるから、1足す1は10よりもっと多いよ?」
「それに1個の中にもつぶつぶがいっぱいあるから、1足す1はもっともっとすっごくおおいよ?」

の後で、自分の境遇を悲観するのではなく、必ず次のように問題提起をしなければならなかったはずだ。

最初にあったみかん1個と半分に分けたみかん、みかんの1房、房のなかにある粒粒1個は、みんなおなじ1なのかな?

けんとくんは左辺と右辺で異なる1を用いて足し算を実行するという愚を犯しているので、1足す1が2ではなくなってしまったのである。教師はこのことを冷静に指摘してやらなければならない。
「何が同じ1なのか」ということに着目していくことによって、僕らは具体から離れて抽象的に数というものを認識し、計算することができるようになるのではなかったか。

冒頭の話が出てくる前、授業ではたくさんの個性あふれる猫たちが描かれたページを広げさせ、
「この中に猫は何匹いるでしょうか?数えてくださいね。」
という問いかけから始まる。猫はたくさんいる。黄色いのやら灰色なのやら。着ている服もさまざまである。でもそういう具体的な個性を捨象して、「猫は何匹か」と問われているのである。
だがけんとくんは次のように言う。
「先生。この猫だけヒゲがありません。」
もちろんそのコメントは間違っていない。確かにヒゲのない猫がいるのだ。だが問題はそこではない。
猫の個性を捨象することが重要なのである。

また、チョークの話を出した教師に対して、
「どうして赤いチョークと青いチョークを足すの?」
と問うている*1。色は違っても同じチョークだという認識が不足しているのである。

通常、足し算の概念を考えるときは、個性の現れない同じものをたくさん用意してはじめるのだろう。例えば同じ形の正方形のタイル。同じ色、形のおはじき。碁石。何でも良い。「同じもの」であることがはっきり認識できるものからはじめていくわけだ。そしてやがて「1+1=2」という抽象へとたどり着く。

けんとくんはまだ具体的事物の個性を捨象して、「同じもの」を1つずつ用意したとき、合計が2となる、そういう意味での抽象的「1+1=2」を理解していないのだ。僕はそれを学習障害だというつもりはない。だが、教師はこの問題点を的確に把握し指導せねばならないのである。自分の境遇を嘆いている場合ではない。

なにが問題か。(その2)

そして准教授とのやりとり。
僕はあえてルビをふって

2進法では当然1足す1は10(じゅう)ですね。
コンピュータ世界の定義も1足す1は10(じゅう)です。
2の剰余系では1足す1は0。
ブール代数であれば1足す1は1になります。
文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。
論理演算でも1足す1は1。電子回路なんかで使うのがそうです。具体的には、複数の入力のうちどれかひとつでも1であれば、出力も1になる場合が論理和です。

と引用した。作品の中で役者は10を「じゅう」と読んだということを強調したいのである。この10は十進法でいうところの10ではもちろんない。十進法の10(じゅう)は、2進法では1010である。2進法で言うところの1+1は「じゅう」ではなく、「いちぜろ」とでも読まなければならない。2進法の世界の「10」は10進法の世界の「じゅう」とは異なる。「2進法では1足す1は『じゅう』になる」というのは、2進法と10進法を混同した言明で、「同じものが何か」ということに通じる誤りである。

「コンピュータの世界の定義」はよくわからないが、とりあえず細かなところは省いて、もうひとつ指摘しなければならないことがある。

文字列結合子でいけば1足す1は11(じゅういち)だしね。

という発言である。もちろん「じゅういち」という読み方は従前と同じ理由でよくない。「いちいち」と読むしかないだろう。だが、疑問はそれだけではない。
果たしてこれは「足し算」なのだろうか。「文字列結合子」というのはおそらく1+2=12であり2+1=21なのだろう。123+432=123432という具合に文字列をそのまま並べるわけだ。
でもこれって可換じゃないですよね。
何もない空な文字列を\phiと書くことにすると、任意の文字列a_1a_2\cdotsに対して、a_1a_2 \cdots+\phi=a_1a_2 \cdotsとなるので、これは零元である。
だが、この意味では、空ではないどんな文字列をもってきても、逆元がとれない。a_1a_2 \cdots+b_1b_2 \cdots=\phiとなる文字列b_1b_2\cdotsはない。可換でもないし逆元もないような単なる2項演算を「足し算」と呼び、「1足す1は2でない場合」の例として掲げることに、僕はかなり抵抗を感じる。

そうはいっても、学生は大変である。授業の内容について質問しようとしたら、いきなり「1足す1とは何かを述べよ。」である。
「2です。」と答えることが許される雰囲気じゃない。そんなことしようものなら「君、面白くないね。破門だよ。」と言われかねない。
なんだこのハラスメントは。笑。

閑話休題

このエピソードは重要である。
足し算とは何か。「同じもの」とは何か。この2つの重要な問題が提起されているのである。これは十分教育的な素材である。
だが伊東演じる女教師はもちろん准教授の方も、こうした問題にはとんと無関心で、自分の境遇を嘆くか、可能性は無限大だと興奮するばかり。
なんともお寒い展開なのである。

ほんとはわかってるだろ、お前。

寒い話にマジレスするのは馬鹿げているかもしれないけれど、馬鹿げたマジレスついでにもうひとつ言っておきたい。

けんとくんが、「お前、実はうそつきだろ。」といわれて「あなたの言うとおりです。」と答える場面。
けんとくんは、「ソクラテスプラトンパラドックス」を自力で発見したのだろうか。
確かにそうなのかもしれない。でも普通はどっかの本で読んだのだろうと推測する。天才でもなんでもない。
ともあれ、確実に言えるのは、彼には、「お前、実はうそつきだろ。」という問いかけに、このパラドックスを用いて応酬するという機転である。
たぶんそういう子は、普通に考えれば「頭の良い小学生」のはずである。そういう機転が利く子が、「1+1=2」に疑問をさしはさんだのである。
ほんとにそんなことってあるのだろうか。
僕には、この小憎たらしい小学生は、1+1=2の意味も猫を数えるという先生の指示もすべて理解したうえで、あえて教師をからかっているのだとしか思えないのである。

もちろん、教師は「ソクラテスプラトンパラドックス」なんかに混乱してはいけない。自己言及とか相互言及とか小難しい理屈をこねる准教授などはほっといて、なぜこの応酬がパラドックスになっているのかということを説明しながら、問題提起をするべきなのだ。すなわち、「うそつきはいつでもうそをつき、正直者はいつでもほんとのことを言う」という前提を疑わせればそれでよい。けんとくんがそこまで理解しているかどうかは知らないが、とにもかくにも、伊東美咲演じる小学校教師は、すべてわかった上でからかっている小学生に、いいようにあしらわれているのではなかろうか。

さらにいくつか気になる台詞がある。
「猫を数えるのよ。」
といわれたけんとくんが、
「どうして猫を数えるの?」
と聞き返す。

また
「どうしてチョークを足し算するの?」
と問い、
「それが算数だからよ。」
と答える教師に間髪入れず
「どうしてぼくたち算数をするの?」
と問い、絶句する教師に向かってさらに
「どうして僕たち勉強するの?」
と畳み掛けていく。
ついに教師は
「それは、それがあんたら子供の仕事だからよ!」
と逆切れしてしまうのだ。

だが、ここで

「どうしてぼくたち算数をするの?」

から

「どうして僕たち勉強するの?」

へと飛躍する発言を良く考えてみるべきだ。教師はまだ「それは勉強だからよ。」とは答えていないのに、である。
僕は、この種のやりとりに、「脚本家の創作」を強く感じる。すべてわかっている脚本家が裏で筋書きを書いているから、こうした飛躍や「ほんとはわかってるだろ、お前。」という突っ込みの余地が生まれているのではないか。実はこの脚本家、
ほんとうは「1+1=2」の意味を理解していないんじゃないか。
体に刷り込まれた1+1=2というルールとそれへのいろいろな違和感が調停できてないんじゃないか。
本当は「何で勉強するの」という動機を問う質問に答えられないんじゃないか。
などと邪推してしまう。物事の原理を問う「なんで1+1=2なの?」が、いつの間にか動機を問う「何でチョークを足し算するの?」「どうして僕たち算数をするの?」「どうしてぼくたち勉強するの?」へとすりかえられていく。僕には、そうした「すり替えの論理」が、小学生的なものにも、「天才児」的なものにも見えない。透けて見えるのは、脚本家自身の心象
1+1=2へのルサンチマン
ではなかろうか。なんだか大変気持ち悪いものを見てしまったのではないか?などと思うのだ。

まとめ

小学校教師は大変である。「なぜ、どうして」を連発する知的好奇心の観点からも、闇雲に走り回る体力の観点から言っても獰猛な小動物を御するのは並大抵のことではない。
ちょっとした「なぜ」に即座に反応できなければならない。ドラマで言うなら、「同じものは何か」とか「ウソつきはいつでもウソを言うのか」とか、「水平な虹はあるのか」といったことに即座に対処できる知識と機転が必要なのである。おまけに大勢の生徒が走り回るのを統御しなければならないのだ。大変大変。とてもまねできるものではない。お疲れ様なのである。

*1:しかし教師の答えは悪い。「それは足し算だからよ。」今は足し算の授業なのだということなのだろう。しかし、この発言はまったくの的外れで嘆かわしい。この教師も問題点を把握できない無能な教師でしかないのだ。

小学校の掛け算の授業では、順序に意味があるらしい。

「1皿に3個のケーキがある。5皿で全部でケーキは何個か?」


という問題に対して、1皿あたりの量が3個で5皿分と考えれば、3×5=15個が正解で、5×3=15はだめだというのである。その理由を解説しているページとして、例えば次のようなものが挙げられる。

かけ算の式は「1つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束になっているので、問題文から正しく読み取って、そのとおりに式に書けるようにしましょう。
小学校の算数では、式の意味を理解することが大切なので、このような約束があります。

簡潔である。5×3だと、1皿に5個が3皿分ということになるのだという理屈である。この種の質問はいろいろなところで応酬があるらしく、例えば
この質問掲示板にある応答がいろいろな情報を含んでいるように思われる。

小2で習う掛け算に、かける数とかけられる数、が出てきますが、学校では文章問題で、先に来るのがかけられる数、後に、かける数がくることに徹底しています。
我が家の主人が、そんなものは聞いたことがない、高学年の算数や数学で、かけられる数もかける数もどっちだって答えは同じなんだから、いいんだ。どこの参考書にそんな事が書いてあるんだ、AXB=BXAだ、学校の先生が間違っている、おまえも嘘を言ってるだけだ、と申しています。。子供にもそんな調子で教えるので、子供もどっちが正しいのかと疑問を持ち始めてきました。学校では、5+5+5は、5が3回かけられている事である、ということを徹底し、特に文章問題では、5X3でなければXになってしまうのです。主人には、どのように説明をすれば、分かってもらえるのでしょうか。単位がかけられる数に相当する、かける数が数、に相当する、と説明すればいいのでしょうか。自習ノートなどのO付けを主人にお願いすると、逆でももちろんOにしてしまうので、結局先生から再度Xをもらい、帰ってくることもあり、困っています。主人は理数系卒、40歳近くです。かけられる数もかける数も習った記憶はないそうです。強気に、学校の先生も、教科書通りに合わせる私にも、おまえらが間違いだ、と言ってのけるのですが、この人に理解できるような説明ができる方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。

という質問に対して、「意味が違うのだから順番を徹底しなければならない」と主張する答えが多数寄せられている。

かけざんの導入のところでは
「1あたりの数×いくつぶん」という部分はとても大切な部分。

いわゆる「かけざんの概念」です。

理数系の方ほど、どうも計算の方に走ってしまって、その意味などどうでもよくなってしまって、本来子どもに伝えたい「かけざんの意味」についてなど伝えなくてもいいと思ってしまう方が多いですね。

理系に不当な非難を浴びせている部分は失笑ものだが、重要な主張は、「掛け算の順番には意味がある」ということであり、この主張の主要な根拠は

「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」

という式に当てはめて立式しなければならないということだ。また順番の徹底は、より進んだ単元で「単位あたりの量」を考える際、混乱しないために必要だとの話も出てくる。
とにかくこうした主張をする人たちは例で話したがる傾向にあるようで、ついには5本耳のウサギの話も登場する展開になる。
「ウサギが5匹。耳は全部でいくつ?」という問題に対して
2×5と書けば2本耳のウサギが5匹だが、5×2と書くと5本耳のウサギが2匹という「意味」になるのだ。

かけ算の式は「1つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束になっているので、問題文から正しく読み取って、そのとおりに式に書けるようにしましょう。
小学校の算数では、式の意味を理解することが大切なので、このような約束があります。

というコメントを書いた人がどのくらい内容を理解して書いているのかはわからない。「約束」ということと「意味」ということの峻別はこの場合決定的であり、ここを取り違えると、

掛け算の順番などどちらでも良いと主張すること=掛け算の意味を理解していない

という倒錯が生じることになる。上の書きぶりは、そうした倒錯を助長しかねない悪質なものである。
質問掲示板での返答の中では、本来は「約束」であったはずのものが、いつの間にか「概念」という言葉にすりかえられているかのようだ。

「意味を理解していない」ことへの糾弾は時として行き過ぎる。上の返答のように、あたかも理系が掛け算の意味を理解していないかのような非難。
また別の記事では、

  • 掛け算の原則。

それは、「A×B=C」という場合、AとCの単位が一致していること。
この理屈を壊すと、モノの考え方自体が崩壊してしまう。
(その理由説明まではさすがに割愛させてもらうが。)

  • 「A×B=Cも、B×A=Cも、どっちだって一緒じゃん!」

という40歳男性の主張、
人はそれを「ミソもクソも一緒」の考え方と呼ぶ。危険かつ野蛮な発想である。

  • 大切なのは「論理的思考」なのです。

そこから逃げようとするヤツこそが、
ミソクソ一緒の強引な主張を展開し、力技で自己を正当化するものと確信しています。
コトは算数だけの問題じゃなく、国語力であり、
ひいては総合学力や教養までをも蝕む。

  • 小さな「どっちだっていいじゃん」精神が積み重なる恐ろしさを

再認識してみるのもいいんじゃないかしらね。

といった極論も出てくる。順番を徹底することが「意味を理解すること」であり、「論理的思考」なのだという。「約束」と「意味」の取り違えは決定的である

他方、単位の問題ということに着目してみると、これは簡単なようで結構ややこしい。先ほどの掲示板の返答の中に次のようなものがある。

足し算や引き算はすべての項で単位が同じ、掛け算や割り算はすべて単位がそろうことはない。とくに掛けられる数と掛ける数の単位は同じではないということですね。(面積のときはどちらも長さであって同じように見えますが、縦成分の長さと横成分の長さということで、まったく同じ性質の長さではない=ベクトルの考え方も必要、ということを意識させたいと思いますが、これは2年生では無理でしょう)。

 単位を常に意識しないと、単位が違うのに足し算や引き算を立式する、などのとんでもない間違いをおかしますね。とくに、理科の分野で顕著に見られる間違いと思います。

「違う長さ」とか「ベクトル」とか、意味不明である。この返答では、皿と個をかけて個になることへの「違和感」はまったく無視されている。1あたりの量ということを単位でかけば、[個/皿]となるわけで、
こうしたことを小学生にどこまで正確に伝えられるかは難しい。
これはいろいろな「量」というもののもっている「性質」、例えば内包量と外延量の問題などとも絡んでいる。
しかし、こうした指摘と掛け算の順序の問題とは、率直に言ってあまり関係がないと思う。

また、遠山啓による「水道方式」との絡みで、掛け算の順序というものが教育上どういう意味があるかといったことは
その1その2その3
などが参考になりそうである。

先の問題でミカンの個数を求めるのに、かけ算の順序に意味がないのは、教室の中に並べられている机の数を計算するのに、縦の列×横の列でも、横の列×縦の列でもどちらでも良いのと同様であると書いている。ミカンの個数を求める問題が、実は人そのものは無関係で、人の前に、縦6列・横4列に並べてあるミカンの個数を求める問題と同質であることを分からせることの重要性を説いているのだ。人は、その縦の列の前にラベルとして着いているに過ぎないと考えれば、それが人であろうと皿であろうと、問題の本質とは無関係であり、さらに、そのラベルが、縦の列にあろうと横の列にあろうと、ミカンの個数に変わりがないことに、その本質がある。

より一般的で普遍性のある問題から特殊なものへ、という流れで教えることで、子どもは多様な問題への対応が容易になるという発想

といった観点は傾聴に値すると考える。

また、教育という観点からは、田崎晴明氏による指摘

リンゴが 12 個あります。3個ずつわけると、何人に分けられるでしょう?

のときは、3の段を唱えて、3X1=3,3x2=6,3x3=・・・と進めば良いわけですが、

リンゴが 12 個あります。3人に同じ個数だけ分けます。一人何個もらえますか?

をやるときは、ローカルルールによれば、「なんとかかける3」をやらなくてはダメなので、1x3=3,2x3=6,3x3=,・・・と進まなくてはならないことになってしまいます。これは、限りなくナンセンスで、実際、わり算を教えるときは、そういうことはしないようです。どちらの問題でも同じ「12わる3」なので、同じように3の段を順に唱えて求めます。

たしかに、「リンゴの数と皿の数には本質的に違う意味がある」ことは算数的に納得するべきなのだと思います。しかし、それを無理矢理、かけ算の順序という記号法に押し込んでしまうことで、(子供たちに一時的に強制的に考えさせることに成功しても)結局は首尾一貫しない教育をやることになってしまうのだと思っています。

も面白い。これらの分析は、「掛け算の順序」を意味あるものとして徹底しようと考える人々にとってのひとつの有力な反論ではあろう。そして算数教育を考える上での重要な指摘であろう。

今回、僕がここに記すのはもっと皮相浅薄な観点である。(でも簡単に検索した限りでは、このような皮相浅薄な批判をしている人は見かけなかったので、書いておく価値もあるのではと思っている。)

「掛け算の順序に意味がある」と考える人たちは、なによりもまず

「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」

「いくつ分」×「1あたりの量」=「総量」
とに意味の違いがあるのかどうか

を考えてみるべきだと思うのだ。

結論的にいって「意味の違い」はない。1皿あたり3個を3[個/皿]という1あたりの量とみて、
3[個/皿]×5[皿]=15個と5[皿]×3[個/皿]=15個に意味に違いはないのである。
3×5=15と5×3=15をみただけでは、その子が「1あたりの量」という考え方を理解しているかどうかを判断することは不可能である。単位のついていない式だけを見て、意味がわかっているかどうかを判定すること自体が不可能だ。「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」という式だけが正しく、「いくつ分」×「1あたりの量」=「総量」が誤りだという理由はどこにもない。

もちろん
“5人に蜜柑を3個ずつ配る。蜜柑は全部何個?”
という問題に
「まず、5人に1個ずつ渡す。同様に2個目、3個目と渡す」
と考えれば
5[個/回]×3[回]
というように
「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」
という理解もできる。(ただしこうした視点の転換が、小学生にも自然に説明できるかどうかは、問題の書きぶりにも依存する。)
しかし、上で書いたことはそれ以前の問題である。
「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」と書かなければならないというのは、単なる「約束」であって、数式の表している意味や単位の問題とはまったく関係がないのである。結論的に言って、掛け算の順序と数式の表す意味とは関係がない。「1あたりの量」という考え方が理解できているかどうかということと掛け算の順序とは関係がない。

ではなぜ、「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」と書かなければならないというような「約束」が登場したのであろうか。

僕の考えでは、この理由は「単位」の問題とも関係していると思われる。
伏線として、この記事を取り上げておこう。

長女の算数プリント。掛け算の順番が入れ替わっていることでバツになっていた。
長女と妻で誤正ノートを使いながら復習。

掛け算の答えにつけられる単位が先に書かれなければならない

というのが二人の結論。分かりやすくて良いなぁと思った。

再三登場、陰山英男先生の「ヒューマンラボ」からの引用だが、

お皿にリンゴが3コのっています。そのお皿が8皿あったら、リンゴは全部でいくつあるでしょうか?

という問題。立式は、

3コ × 8皿

が正解で

8 × 3

とすると間違いになる。
文章題を数式に直す"翻訳"が頭の中で結び付けられるようになるのだそうだ。

今回のように、自分なりの決まり(方式)を見つけられると理解できるようになるのだろう。

この引用はひどい。これだと陰山英男氏が「掛け算の順序に意味がある」と主張しているかのように受け取られてしまうだろう。
ヒューマンラボの該当番組ではそうしたことは一言も触れていない。
陰山氏の主張は、「文章題を数式に直すときには、単位をつけるように指導しましょう」ということに過ぎないのである。
3×8=24で出てきた3,8,24の単位は個ですか、皿ですかと聞いてあげるようにしようというわけだ。8×3=24でも同じように聞けばよいわけである。

しかし、「単位をつける」ということは、陰山氏が考えているほど良いこと尽くめではないことを先ほど指摘した。
なぜ皿と個がかけられると皿ではなく個が出てくるのか。
cm×cm=cm^2だから、この場合も[皿個]なる単位が必要なのか、というのは揚げ足取りだけど、単位の明記は厄介な問題なのである。
3は個で、8は皿で、24は個だというのは、間違いではないが、「1あたりの数」という観点で言うなら
「全部で何個か」という問題を解きたければ、3個は3[個/皿]という単位で考えないとある意味ではつじつまが合わないわけだ。
陰山氏が「1あたりの量」という考え方を理解していないとは思わないけれど、「1あたりの数」というものの見方は巧妙に隠している。
「文章題には単位をつけよう!」はスローガンとしては良いが、微妙な問題であることが隠蔽されているように感じられてならない。

結論として僕が考えるのは、

  • 単位の明記は厄介で、[個/皿]などという単位を説明することにも教育上無理があるから、数式に単位をつけるのはやめよう。
  • しかし、「1あたりの量」という考え方は理解してほしい。
  • そこで、「1あたりの量」×「いくつ分」=「総量」と書かせることにしよう。後者を「掛ける量」、前者を「掛けられる量」と呼んで区別しようじゃないか。

という発想ではないかというわけだ。そしていつの間にか、「約束」を決めるためになされた苦悩(=この場合はいちいち単位をつけるのが厄介な問題だということ)が忘れ去られて、
「約束」だけが教条的に信奉された結果として、

かけ算の式は「1つ分の数」×「いくつ分」の順に書く約束になっているので、問題文から正しく読み取って、そのとおりに式に書けるようにしましょう。
小学校の算数では、式の意味を理解することが大切なので、このような約束があります。

という倒錯に至ったのではないか。「意味を理解すること」と「「1つ分の数」×「いくつ分」の順に書く」ということは本来無関係であり、この「約束」は、
意味を理解しているということを教師と生徒が共通に認識できるための便宜的な約束
というぐらいの効用しかない。
3×5=15と書いている答案は、3個/皿×5皿という意味なのだと生徒も教師も了解できるための約束である。しかし、この約束は、5×3=15でも、5個/回×3回という意味付けができることもある。この「約束」に固執して「順序に意味がある」などとあらぬ「掛け算の概念」を妄想するのは無意味である。
単位のついていない数式だけを見て、誰にでもわかるような式の意味の共通理解を復元するということ自体がナンセンスだし、一面の見方だけを強要するのは尚更非教育的である。

順序を守ることに意味があるのではなく、意味を理解することが大切なのだから、「意味が理解できていれば、順番なんてどうでもいい」はまったく正しい。

最初に取り上げたサイトのアドバイスによれば、

あやふやな場合は、かけ算の文章題で「1つ分の数」がどれか、「いくつ分」の数はどれかをお子さまに説明させてみましょう。

まったくその通り。だからこそ、説明できていれば順番などどうでも良いのである。



[追記]:ずいぶん前に書いた記事にいきなりたくさんのコメントを書いていただいたので、論争が再燃していることを知りました。誤解を招かないために一言だけ追記しておきます。実際に小学生にどう教えるかということと、教える側が正確に理解しているかということとは別の問題です。確かに実際に小学生に教える場合には、「1つ分の数」をはっきり意識させるために前にかくことを強調する意義もあるのかもしれません。しかし、教える側が、先に書くことに何が意味があるのだと誤解しているのだとしたら、それはナンセンスだと言わざるを得ません。ここで書いたことは、実際に混乱している小学生自身のために書いたのではもちろんなく、意味と約束を取り違えている指導者や大人のために書いたものです。2010.12.19